To France

ミラノを出発するのは20~22時くらいだった。ホームまで弟が送ってくれた。上野駅から北へ帰るような塩梅で,妙に感傷的になったことは覚えている。コンパートメントは3段ベッドで,イタリア人一家と黒人のシスター2人と一緒だった。早々にパスポートを車掌に預ける。

弟のところでつくってもらった弁当を食べ,しばらく通路にあつらえられたシートに座り時間を潰していると,ベッドをつくる時間になった。じゃまにならないように手伝って,つくり終えて,そのまま横になったのだけれど,どうも様子がおかしい。イタリア人一家がコンパートメントから出ていく。カーテンを閉め,もってきた本を捲っているとコソコソと音がする。そこでようやりシスターが着替えをしているのだとわかった。今さら出るに出られず,そのまま潜んだ。

なかなか寝つけずに1,2回廊下に出る。暗闇のなか,どうも寝台列車が動いている気配がない。明け方3時,4時,時間調整のため,20分くらいは平気で止まっているのだ。これは国内の寝台列車も同じだったような気がする。

リヨン駅に着いたのは5時過ぎだった。これから朝食をとって,近くのピカソ美術館を訪ねる。同僚に頼まれたアニエスベーの帽子を手に入れた後,時間をかけてポンピドゥーセンターを巡り,バスで空港まで行く予定だった。

しかし,英語さえおぼつかない私にフランス語は荷がかちすぎる。巷でいわれるとおり,フランスで英語を使ってコミュニケーションをとることは絶望的な困難さを伴う。そこから10数時間,ガイドブックを読み,適当に発音した私の音声は,だから誰にとっても意味をもたない音だった。もちろん,私にとってもそれは同じこと。

 

ポンピドゥーセンター展

昼まで事務所で仕事をした後,池袋で家族と待ち合わせ,東京都美術館にポンピドゥーセンター展を見に出かけた。

イブ・タンギーとフランシス・ベーコンが来ていなかったのが非道く残念だけれど,1年1作で20世紀を俯瞰する企画はとても面白い。本家では,こういう切り口で展開するのは難しいだろう。1945年のブランク,1950年,60年代がぐるりと見回せる配置がポイントだろうか。特に後者は矢作俊彦じゃないけれど,フランスも戦争に勝ちはしなかったのだなとしみじみとしてしまった。

1991年だっただろうか。はじめてポンピドゥーセンターに行った。このサイト内に何度か記したことだけれど,また思い出してみたくなった(「また,思い出してみたくなる」というのは妙な言い方だ)。

その年の夏,はじめて自分ひとりで担当した本はなかなか進まなかった。途中に共同で進行する企画が入ったりして,刊行のめどが立たない。おまけに上司たちとは折り合いが悪い。昼飯を食べながら同僚が口にする上司の悪口を聞くのに辟易としはじめた。唯一順調だったのは,昌己や徹とスタジオに入って曲をつくることぐらい。会社帰りに中野や高円寺をぶらつくのが日課だ。あれほどにぎやかだった20代は折り返しを過ぎたのに先が見えない。

当時,弟が仕事をしていたミラノを覗いて,パリ経由で帰ってくる旅行を思い立った。夏が始まったばかりの頃のことだ。

ローマから入ってミラノに着いたあたりまでのことは以前,このサイトのカテゴリー「記憶とめぐる冒険/イタリア」に少しまとめた。

で,夜行電車でミラノを出発したところから,あれこれ思い出してみることにする。(つづきます)

「ともに」の余白

これも何度か記したことだけれど,演出家の竹内敏晴さんに連載いただいたのは1996年後半から1年ほどのこと。たどりついたキーワードが「人の身になること」で,ただ,ではどういう切り口で次の企画を立てられるかまったく見当がつかなかった。

執筆をお願いする状況が途絶え,10年ほどして竹内さんの訃報に接した。立川で鳥山敏子さんたちが発起人になった竹内さんのお別れ会に出席させていただいたときにも,まだ「人の身になること」の続きは見えなかった。第一,竹内さんに書いてもらおうと思っていたのだから,どうしようもない。

別の企画を進めるなかで,もやもやした霧のようなものが見え始めたのは,5,6年前のことだった。“ナラティヴ”や“リフレクション”などがこの界隈にも浸透してきたころで,ただ,そのときも次の企画がとん挫し,連載の後始末をしに大阪や神戸に何度か出かることになった。

「ために」と「ともに」の違いを意識したときのことは,実のところ覚えていない。記録をひっくり返せば,何か出てくるかもしれないけれど,とにかく,まず目の前の事象を「ために」と「ともに」のスリットを通して見直してみた。

それなりに整理がついた時期に,企画の関係で野村直樹さんに原稿を依頼することになった。一度,野村さんから電話をいただいたので,そのときに「ために」と「ともに」の件を話した。数週間後,メールで届いた原稿には,「ために」と「ともに」の違いがとてもわかりやすく紹介されていた。

「ために」というのは一人称。自分勝手で,時にはおせっかいに感じられる所作に陥る可能性を常にもっている。

「ともに」は二人称だ。相手にむけてボールを投げ,届くボールの距離,大きさなど手ごたえを感じながら位置を修正して投げ返す。

「人の身になる」ことは,一人称である「ために」のようにとらえられかねないけれど,実は二人称の「ともに」なのだ。ときどき,竹内さんからの返事を想像する。

Cure

10数年前,仕事の関係で医師を訪ね,ターミナルケアについて話を聞く機会があった。多くはホスピスや在宅ターミナルケアに関心をもつ方で,当時40~50歳代の方がほとんどだ。最終的に100人近くの医師と会った。

ターミナルケアのなかで,医師に果たして何ができるのか疑問に思ったのが始まりだ。具体的に患者さん,家族から聞いた記憶はないものの,当時,私がもっていた印象は次のようなもの。

治療の可能性があるレベルのがん患者さんに対しては,「大丈夫,治せますから安心してください」(実際には「治ります」と言っているのかもしれないが,患者,家族には「治せます」と聞こえてくる)。

治療の可能性がほとんどないがん患者さんに対しては,「残念ですが,治らない段階です」(この場合,患者・家族にも「治せない」とは聞こえない)。

医師としての「私」に,がんは治せるのか,治せないのか。

治る可能性があるときは「治せる」と聞こえるのに,可能性がなくなると「治らない」と対象化されてしまう。そんなふうに感じた。

そこで,前述の医師と話す機会ごとに,「先生にとって,末期がんは治らない病気ですか? 治せない病気ですか?」と聞いてみた。いやらしい物言いだ。熱くターミナルケアを語る医師100人のうち,「治せない」と言葉にしたのは3名だけだった。

このところツイッターでエセ医療を叩くツイートを眺めるたびに,あのときのことを思い出す。医療は初手から万能でないし,人間の免疫力や回復力がなければ医師の技術だけで,疾患を抱える患者を回復させることなどできはしない。ところがエセ医療を叩くことで,何だか医学(西洋医学)の万能感が強化されるような気がしてくるのだ。

西洋医学は決して万能ではないし,まだ解明されていないことだってある。手術は成功したけれど患者は亡くなったなどということだって起こりうる。作業仮説で物事をすすめている世界でもある。根治的な技術として最後に登場したのはストレプトマイシンかもしれないし,それだって人の回復力がなければ,薬だけで疾患を治癒することはできない。一方で,手術について,人の回復力を妨げているものを取り除くための技術だと語る医師が登場してきた。

エセ医学が蔓延る領域で,西洋医学を用いて,一人の医師はその病を治癒できるのか。治癒できないときに,医師にできることは何なのか。その医師と病気を通した関係を自分はもちたいかどうか。そういう体温のようなものがツイートには感じられないことにいらついてしまう。

Ceremony

夕方から通夜で,翌日は告別式。

昼過ぎに家を出て,練馬で昼食をとる。一度,義父の家に行き,段取りの確認。妹さん一家がやってきたので,お寺に向かう。

本堂にあがり,お参りをした後で,お花の順番と名前を確認する。詰所に戻り,受付の準備をしていると17時くらいになった。予報とは反対に暑いくらいの一日。風雨が非道いよりはよほどましではあるものの,暑さはこたえる。

仕事関係,ご近所,先に亡くなった義母の親戚などで,通夜が始まった。宗派の違いを読経のときに感じた。ここでは同じフレーズを繰り返す。いきおい同じ低音が増幅されて堂内に響く。まるでホーミーのように倍音が聞こえる不思議な読経だった。御膳料が少し多めだったので,海老一染之助・染太郎よろしく「いつもより余計に諳んじています」のかというくらい長い時間に感じた。

精進落としとは名ばかり,鮨と煮物,てんぷらなどにアルコール。義母の葬儀以来かもしれない家内の親戚筋の姉弟と同じテーブルになった。二人とも久しぶりだ。男の子といっても30歳は過ぎただろう。初めて会ったときは中学生くらいの頃で,井之頭公園から住宅地に伸びる坂で亀を眺めた記憶がある。仕事を途中で辞めて一年間海外留学の後,別の仕事に就いたようだ。どこかで聞いた覚えがある行き来だ。音楽の話ばかりできたし,下手な気をつかわなくてよいので助かった。美大を出たお姉さんは装丁と短歌をやっていて,一度,仕事をお願いしたことがある。震災の年から1,2年後,御茶ノ水のロシア料理屋で食事をしたのが一番最近のこと。初めて会った娘さんは4歳くらいで,見ているだけで楽しくなってくる。

お寺に泊まる親戚はいなかったので,そのまま家内,娘と自宅まで戻った。

翌日は,10時集合だったので慌てて家を出た。途中,サンドウィッチを買い,待合室で朝食は簡単に済ませた。

告別式は義父の親戚中心で,通夜とはがらりと雰囲気が変わる。義父の2人の弟さんが90歳,82歳なので,本堂までの階段が登り切れるか心配だったものの,手すりにつかまって登りきる。読経,焼香が終わり,棺を開け,飾り花でいっぱいにする。棺を下して霊柩車とバスに分かれて火葬場までは30分程度の距離だ。多死時代に,都下の火葬場の数は足りているのだろうか。

お別れをして,お骨になるまで待合室に移る。僧侶は32歳で,数珠は手製だという。手持無沙汰だったので,会話を少しつないで,待ち時間を乗り切る。

40分ほど後,お骨を拾う。両親のときにも感じたのだけれど,骨になると,さすがに悲しさは収まる。いのちが潰えた肉体だから悲しく,いのちの潰えた骨はそれほど悲しくないのか,それとも肉体と骨の差が悲しさを収めるのか。この前後の感情の動きは客観的にみると面白い。初手から骨で肉親の死に接した体験がないから何とも言えない。

骨壺を携えてお寺に戻る。ここで初七日も一緒にするのがほとんどだ。再びホーミーのような読経とお焼香。一連のセレモニーが終わり,一同会食。義父の弟さんは,義父にそっくりだ。遺影をながめて,90歳のおじいさんが「おれに似すぎて恥ずかしくなってくる」と頻りに言うのがおかしい。ビールを飲みながら,義父が若い頃の話を聞く。お墓参りをして散会したのは16時過ぎだった。

タクシーで駅まで行き,喫茶店でしばらく休んだ後,家に戻った。

家内と娘で,父母あわせて4人を看取った。しばらくこの手のしんどさを感じることはないと思うのだけれど。

2日間で200万円以上の代金になったのは私の父母のときと同じ。都下とはいえ,お寺に支払う代金が大きかった。今後,四十九日や相続手続き代行の手数料を勘案すると,すぐに引き出せる預金が300万円以上ないと,予算がショートしかねない。

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