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夕方から雨。虎ノ門で対談収録のはずが,最後は同僚と二人もまざって話し合いのようになってしまう。テープ起こしが大変そうだ。日本橋で東西線に乗り換えて帰る。『スモール・イズ・ビューティフル』は最初のあたりを行きつ戻りつしながら読んでいる。

何度か記したとおり,30年くらい前のこと。「カウンセラーをめざす人の目的の何割かは,人より優位に立ちたいためだ」というエッセイを中綴じA5判の成人雑誌で読んだことがある。当時,その手の雑誌には,たとえば秀逸な『マイク・ハマーへ伝言』評が掲載されたり(誰がどの雑誌に書いたのは辿る術はないものの,あの記事は矢作俊彦評としても5本の指に入るくらいの内容だった),忘れ去られたマンガに光を当てたりしていて,下手な雑誌のコラムよりも数倍面白いものが掲載されちたので,書店で一通りページを捲ってはチェックしていた。

70年代後半から80年代にかけて,新興宗教,マルチ商法,自己啓発セミナーにまつわる動きが世間を賑わせた。私のまわりでも,一時,絡め取られてしまった奴がいた。そうだ,マルチ商法の被害者へのルポを掲載していたのも成人雑誌だった。表紙の記事コピーが目に入り,コンビニ店頭で読んだところ,勧誘のくだりは友人が話す様子とほとんど同じだったという経験がある。だから,その成人雑誌を仲間うちに回覧して,結果,われわれはマルチ商法から回避できた,という話にしている。実際は,あの雑誌を証拠に説得したわけでもないし,いつの間にかネタの1つにしてしまった。

結局,他者を操作する/操作したいという態度・欲望なのだ,やっかいなのは。だから,その後,物事に直面するたびに,「人を操作しようとしていないかどうか」をチェックする癖がついてしまった。

その後,大塚英志や宮台真司が登場して,彼らの著作のなかで琴線にふれたのは何よりも,他者を操作しようとする欲望に対して異を唱えたことだった。具体的にどこでどう唱えたかではなく,私がそう受け取ったということだけれど。

にもかかわらず,彼らの著作には「他者への干渉=おせっかい」を感じることがある。それも決してフラットな立ち位置からものではなく。もちろん,彼ら以降の書き手となると岸政彦が登場するまで,それは非道いものだったので,今も続けて読んではいる。

ここから先は以前,洗脳や服従の心理について書いた内容と重なる記憶だ。スキナー,ミルグラムを筆頭にした行動主義心理学一派について講義を受けたの80年代の同じ時期。なおさらに,新興宗教やマルチ商法,自己啓発セミナーを仕切る輩を容認できるわけがなかった。村上龍がドラッグ1錠で,人間の意志では何ともしようのない状況に置かれてしまう,その人間をしかたなさそうに眺めたのと,たぶんそれは裏腹なのだ。

対談収録後,『スモール・イズ・ビューティフル』を読んでいたら,1980年代の諸々を思い出した。

Small is beautiful

朝ごはんをとり,無料視聴期間に観終えられなかった“Before the flood”,英語字幕版があったので続きを観る。というか最初から観なおす。豆をひいてコーヒーを3杯。14時くらいから出かける用意を始める。東西線経由で船橋。バスに乗り継ぎお寺に着いたのは16時くらい。お墓参りをしてふたたび船橋に戻る。東武百貨店のカフェでネットに繋ごうと船橋市の無料wifiを試すが,非道いアクセス状態で,30分くらいかかってようやく繋がった。京成線で八幡まで移動して,山本書店で,E.F.シューマッハー『スモール・イズ・ビューティフル』(講談社学術文庫)と開高健『岸辺の祭り』(角川文庫)を手に入れる。本八幡駅ビルのなぶら家に入る。酎ハイ2杯,キュウリの一本漬,うずらの卵の醤油漬け,レバにら鉄板焼き。都営新宿線で瑞江まで行き駅前のブックオフでマンガを買い,家に戻る。

“Before the flood”は地球温暖化に警鐘を鳴らすドキュメンタリー映画。監修をスコセッシが担当し,進行はレオナルド・デカプリオだ。エンディングの曲がロバート・フリップ「エクスポージャー」に入っている“Here comes the flood”に似た曲だったので,記憶がいろいろ蘇ってきた。

E.F.シューマッハー『スモール・イズ・ビューティフル』は,1981年のキング・クリムゾン来日公演のパンフレットで,滝本誠がディックの『ヴァリス』と合わせて紹介していた記憶がある。渋谷陽一との対談だったはず。『ヴァリス』を先に読み,そこからディックに嵌っていった。「帝国」を「キング・クリムゾン」に置き換えるような無茶苦茶な読み方だったけれど,そこから後は愉しい読書体験だった。その後,確認するとパンフレットで取り上げられているのは『ヴァリス』だけだった。シューマッハーは“God Save The Queen”か“The League of Gentlemen”“Let The Power Fall ”いずれかのライナーノーツで紹介されていたのだと思う。

『スモール・イズ・ビューティフル』を知ってから文庫になるまでタイムラグがあるけれど,刊行後すぐに読んだ。当時,経済学部生でも何でもなく,唯一,ロバート・フリップ繋がりで読み始めたものの,すでにクリムゾンは再結成された後,再び活動停止期に入っていたばかりか,フリップはロックの表舞台から姿を消し始めていたので,ますますピンとこなかった。

“Before the flood”は新しさを売り物にしているわけでも何でもないので,シューマッハーの『スモール・イズ・ビューティフル』を読み直して,それがどうのこうの言っても始まらない。ただ,『スモール・イズ・ビューティフル』を四半世紀ぶりに読み返し,これがとても面白かった。こんな本だっただろうかというのは正直な感想だ。「資本」を「自然治癒力」に置き換えれば,医療について参照することもできる。

フリップは,自作のフリッパートロニクスにJ.G.ベネットの講演テープを絡めて“Here comes the flood”に繋げた。その歌詞(?)がサイトにアップされているので張り付けてみる。曲はこちら

WATER MUSIC I
(original text by John G. Bennett, my transcription)

From the scientific point of view it is now very likely that there will be again another Ice Age, quite soon, in the world, that we shall have the north part of the world all frozen like it used to be, and we’re beginning to have natural disasters, from the scientists’ study it seems likely that we should soon begin to have these great changes in the earth’s climate so people will not be able to live where they have, and the oceans will rise, and many cities will be flooded, like London, and Calcutta, and so on. These things, they say, will happen, according to scientific theory, in about forty years at the most, but maybe even quicker.

HERE COMES THE FLOOD

When the night shows the signals grow on radios
All the strange things they come and go as early warnings
Stranded starfish have no place to hide
Still waiting for the swollen easter tide
There’s no point in direction
We cannot even choose a side
Crowd

Lord here comes the flood
We’ll say goodbye to flesh and blood
If again the seas are silent in any still alive
It’ll be those who gave their island to survive
Drink up dreamers you’re running dry

I took the old track
The hollow shoulder, across the waters
On the tall cliffs
They were getting older; sons and daughters
The jaded underworld was riding high
Waves of steel hurled metal at the sky
And as the nails sunk in the cloud
The rain was warm and soaked the crowd

When the flood calls
You have no home, you have no walls
In the thunder crash
You’re a thousand minds, within a flash
Don’t be afraid to cry at what you see
The actors gone, there’s only you and me
And if we break before the dawn
They’ll use up what we used to be

Words by Peter Gabriel

ネタ

寒くなった。19時くらいまで仕事をして,帰りに近くのカフェで一休み。コンビニでサンエイムックの「サイボーグ009」vol.9を購入。地元の駅に降り改札を出ると,降りだした雨がマンションの近くで強くなる。狭い車寄せの前に伸びる桜と樫まで行けば雨を被らなくてよい。小走りで線路沿いから橋を渡る。

サンエイムック「サイボーグ009」シリーズは編集がすばらしい。この巻では「幻影島編」の次に「裸足のザンジバル編」を挟み,「北の巨人コナン編」につなぐ。「裸足のザンジバル」が執筆された時期からすると,こうやってつなげるのが妥当なのだ。にもかかわらず,唐突にサイボーグ009シリーズに組み込まれて少年サンデー版として発表から少し遅れて刊行されたため,メディアファクトリー版でさえ,この並びにはなっていないかった。

帰りの電車で,この巻にどんな情報が盛り込まれているか,その視点から読み直してみた。もうひとつ,画面づくりの視点でみるとこの時期,しばしばとり入れられている手法があるのだけれど,それは改めて。それにしても通称「コンビニ本」の流通経路が気になる(最終的に読者の手に届くまで)。

ということで,石森章太郎のマンガについてあれこれ考えた。

教養を盛り込むということは,もとになる教養が存在する。これをどのように料理するかでオリジナリティが問われるのだろう。しばしば石森章太郎のマンガは,SFや映画からの引用(場合によっては盗用),影響を指摘されることがあった。絵についても同様で,たとえば「リュウ」に連載された「幻魔大戦」神話前夜の章のカラーページが明らかにフラゼッタの一葉をもとに描かれたことを指摘する投書が掲載されたこともあったはず。

では,それらを,マンガのなかにさまざまなもの・ことを取り込もうとするバイタリティゆえととらえるか,アイディアが枯渇して既存のものから盗み糊塗したととらえるか,どちらかなのだろう。同世代では,評価は芳しくなかった。でも,40年近く石森章太郎のマンガを読み続けてくると,バイタリティゆえだったのではないかと,やはり思うのだ。

たとえば手塚治虫の「アドルフに告ぐ」は,極端な話,小説として創作されても,もしかしたら違和感なく読むことができるかもしれない。「アドルフに告ぐ」を例にあげたのは,この作品を読むと,松本清張やら五木寛之などの小説家の一時期の作品を思い出してしまうからだ。坂口尚の「石の花」とは決定的に違う。「アドルフに告ぐ」で手塚は,小説にマンガを身売りしてしまったような気がする。マンガである理由をどこに置くかということで,1960年代後半から晩年までの手塚治虫は,その点を放棄してしまったような気がする。1950年代に魅力的だった映画的な構図とコマ割りは手塚治虫にかぎっていうと枯渇している。この時期の評価の高さが,昔からずっと腑に落ちない。

石森章太郎の晩年,立川文庫シリーズ3冊を久々に読み返してみた。

絵が時代に追いついていない感じは“石ノ森”に改姓する前から周知の事実ではあるものの,この時期でさえ,構図とコマ割りだけを追っていくと,スピードが増していることに驚いた。

コマとコマの間の時間をバッサバッサと削っていく。それは読者が追いついていけないくらいの速さだ。もはや「考えるんじゃない,感じるんだ」さえも遅く感じるほどのスピードで構図とコマを切っていく。だから受けなかったのだろう。努力する素振りを見せずに,ああいう作品を描いていくのだから,石森章太郎は天才だ。

口だけ

秋のアレルギーのせいか咳が続くので,早めに仕事を終えて,会社近くの診療所に寄った。アレルギー症状を抑える薬を継続して様子をみることにする,池袋でビールを飲みながら大塚英志『感情化する社会』(太田出版)を読む。この前手に入れてからざっと読み終えたものの,気になるところがいくつもあったので,行きつ戻りつしながらページを捲っている。「感情労働」が少しブームになったときに,医療と労働の関係をきちんと整理しておけばよかったのかもしれない。高田馬場で「新潮」12月号を購入。手塚治虫が描くフォルムは,気持ちよさと正反対の方向で感情を刺激する。矯正をかけないフォルムをどこかでみたくなるような感覚。でも,決して巧くはないと思う。

シゲさんについては,10年くらい前の日記に記した記憶がある。(ここここの#4にアップした)出張先の上海で,メールをチェックしたら昌己から訃報が届いていた。がんだったという連絡を受けた記憶がある。少し前,昌己や喬史と飲んだとき,シゲさんの話になって,誰だっただろう。「がんのわけないだろう」と切り出した。そうだったのか。

本を詰めた箱をひっくり返していると,シゲさんの卒論レジュメが出てきた。先輩だったし一度,卒業したような記憶があるけれど,私たちの卒論発表会のときにシゲさんは出ていた。発表を聴いた記憶もある。同じゼミを二度卒業できるわけないのに,あれはどうしたことなのだろう。

どんなかたちでも卒論と名づけて提出すれば単位はとれるゼミだった。先輩の卒論にはカセットテープに録音した自作の歌もあった。シゲさんの卒論はマンガだ。論文ではないけれど,どんなかたちでもというのはそういうことだ。

シゲさんのレジュメは親子関係を記した私小説風エッセイに,卒論(マンガ)から何コマかピックアップしてA3両面にコピーしたものだった。つげ義春のマンガが好きで影響受けていたはずが,今見るとシゲさんのタッチは坂口尚が描いた「ウルフガイ」っぽい。

精神病院の夜勤アルバイトを同じく勤めていたので,2年の頃にはよく話をするようになった。長い休みになると私の下宿にやってきて,時間を潰していった。シゲさんのアパートに行ったときのことも以前,書いた。ときどき私はシゲさんに対して辛辣なことをいったような記憶がある。あくまでも趣味について辛辣にいっただけで,決して,それ以外,そこから外れることについてでなかった。

苦々しそうに笑いながら「口だけだからな」。あるときから,しばしばそう返されることが多くなった。言うことは辛辣でも,生き方にそれは影響を与えていない。そう指摘されたのだと気づいたのは,もう少し大人になってからのことだ。

とうに折り返しを過ぎて

朝は少し早く出社して,いくつかの仕事を片づけ,打ち合わせのために広尾に行く。久しぶりに渋谷経由で学バスを利用した。このところずっと恵比寿駅を使っていたのだけれど,つばめ返しと同じ,結局,おとなしく渋谷駅でバスに乗り換えたほうが便利なのかもしれない。

20時くらいで仕事を終え帰宅。

映画「ぼくのおじさん」が公開されたためだろうか,北杜夫に関する記事や本を目にする機会が増えた。中学生の頃に読みふけった手持ちの北杜夫の本は痛みが非道い。しばらく前から,状態のよい文庫本や単行本を手に入れている。また,本が増えていく。マンガもそうだけれど,同じ作品を何回も買ってしまうのはどうしたことだろう。

数年前,石森章太郎のマンガを読み返したとき(日々,枕元に何らかの石森章太郎の本は置いてある),マンガを通して教養を伝えようとする意図が多分にあったのだろうことを感じ,驚いた。週刊少年サンデー版の「サイボーグ009」短編シリーズは,編集者が持参したノートをもとにアイディアを膨らませたそうだけれど,たえずそこに石森は科学の教養を盛り込もうとする。教条的にならないように仕組まれた物語は,結局,そのために面白さを殺がれてしまったかもしれない。「アスガード7」の内容はすっかり忘れてしまったものの,1970年代,少なくとも学習雑誌に連載された石森のマンガは同じように教養を伝えることが目的だったように思う。編集サイドからもたぶん,要請があったのだろう。読み直してみると,石森のマンガの多くにさまざまな教養・知識が盛り込まれている。それが他のマンガ家との大きな違いともいえる。

今月,石森章太郎論の本が出るそうだけれど,いつくもの切り口で石森マンガは見直し可能なはずなのだ。だから石森章太郎が伝えようとした教養というテーマで論考が発表されてもおかしくない。

40歳を過ぎて北杜夫の小説やエッセイを読み返したとき,実は同じことを思った。エッセイにしても小説にしても,とにかくどこから引っ張ってきたのだろうと思うくらい情報量が多いのだ。

そんなことを考えながら,昔読んだ本を再び買い始めたとき,人生の折り返しを過ぎたのだと感じたことを思い出す。これまで読んだり,聴いたり,観たりしたものから受けた面白さを,結局,反芻していくのだろうと。

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