風俗小説

夕飯のときに新聞を見るまで,すっかり木曜日と勘違いしていた水曜日。

先週から続く偏頭痛が治らず,風邪気味なので,早めに仕事があがり,近くのクリニックで薬をもらって帰る。19時には家に着き,薬を飲んで2時間ほど眠った。夕飯をとるとき,テーブルの上に置いてあった新聞を見て今日が水曜日だと気づいた。仕事のあいだ,今週はあと一日しかないからと焦っていたのだけれど。

週末に買った横溝正史の小説を,探偵小説だとか推理小説だとかいう前に,まずは風俗小説として読んでいるのかもしれないと思った。小説としての面白さがあるとするなら,そんなところにしかない/そこにあるのだろう。埴谷雄高の『死霊』の第三章あたりで首猛夫が歩く工場地帯の描写や,椎名麟三の『重き流れのなかに』のトタン屋根の描写よろしく,戦後すぐの光景を読む愉しさを感じたのに,それは似ている。

すべての小説を風俗小説として切り取って,解説するような試みはとても面白いと思う。

横溝正史の小説なんていうものはトリックよりも,会話や風景描写をデータベース化していったほうがよいと思うのだ。以前,松本清張の小説と昭和30年代を対比させた新書(藤井淑禎『清張ミステリーと昭和三十年代』)の試みは面白かった。恣意的になりかねないので,取り組むとなると難しいのだろうけれど。

四十九日

義父の四十九日の法要があるので,11時過ぎに家を出た。午前中,授業があるという娘とは現地で直接落ち合うことにした。待ち合わせ時間に遅れそうなので,義父の訃報が入ったときと同じくタクシーを使った。今回は途中までだ。駅で電車に乗り換え,結局,駅からはタクシーで寺に向かった。

曇り空で気温も高くはない。といってもすでに10月なのだから,これが普通の天候だろう。1時間ほどで法要は終わる。香を焚き,お経を読む私より一回り以上若い僧侶をふとうらやましく思った。子どもの頃,親に大きくなったら何になりたいか問われ,お百姓さんかお坊さんと答えた記憶がよみがえる。記憶には続きがあり,お百姓さんは鎌でけがをするかもしれないのでお坊さんがいいと答えたのだった。

義妹一家と一度,家に戻り,近くにできたイタリアンで遅めの昼食をとる。1階は上海料理店で2階がイタリアンという不思議なつくりの店だ。イタリアンの厨房にたつ中国人を初めて見たような気がする。ペペロンチーノの辛さを中華料理っぽく感じたのは気のせいに違いない。

家を少し片づけてから,今日は散会にする。いずれにしても一日二日で片づくわけはない。

帰りに駅の近くの不動産屋に寄り,家の売却についてセンカンドオピニオンをもらうことにする。

練馬で休憩しようと思うものの休日の18時近くに,めぼしい喫茶店は見つからない。駅のまわりをさまよった末,カルディに併設された喫茶店で小一時間休む。夕飯を買って家に着いたのは20時半くらいだった。

先週末に108円で手に入れた横溝正史『支那扇の女』(春陽文庫)を読み進めている。何度か読んだはずなのだけれど,すっかり忘れている。

マチネの終わりに

Instagramの投稿を見て,平野啓一郎『マチネの終わりに』(毎日新聞社)を手に入れた。この人が薦めているのだから読んでみようかという塩梅だ。

しばらく前に買い,数ページ読んだまま,他の本を鞄に入れてしまった。結局,本式に読み始めたのは少し前のことだ。出だしと最後が面白く,中盤は説明的な感じがした。特に後半2章は,さまざまなモチーフが盛り込まれて展開する物語に,読みながら自分の記憶がスキャンされるような感じがして面白かった。とりあえずメモ。

人は、変えられるのは未来だけだと思い込んでいる。だけど、実際は、未来は常に過去を変えてるんです。変えられるとも言えるし、変わってしまうとも言える。過去は、それくらい繊細で、感じやすいものじゃないですか?
→ボリス・シリュルニク

マルタとマリアっていう姉妹の話、ありますよね?ーーイエスが家に来た時、姉のマルタは、彼をもてなすために一生懸命働いているのに、妹のマリアはただ、側に座って話を聞いているだけ。
→竹内敏晴、エックハルト

自由意志というのは、未来に対してはなくてはならない希望だ。自分には、何かが出来るはずだと、人間は信じる必要がある。…しかし…だからこそ、過去に対しては悔恨となる。何か出来たはずではなかったか、と。運命論の方が、慰めになることもある。
→倉多江美

「人間は結局、もう一度、運命劇の時代に戻っているのではないかと近頃よく思う…」
「…グローバル化されたこの世界の巨大なシステムは、人間の不確実性を出来るだけ縮減して、予測的に織り込みながら、ただ、遅滞なく機能し続けることだけを目的にしている。紛争でさえ、当然起きることとして前提としながら。善行にせよ、悪行にせよ、人間一人の影響力が、社会全体の中で、一体何になるって。」

「…すべてはコミュニケーションそのものが自己目的化されたシステムの中で起きる、予測可能な些細なトラブルに過ぎなくて、そこで人が傷つこうと、誰かと誰かとの関係が絶たれてしまおうと、システムそのものの存続にまでは影響を及ぼさない。」
→東浩紀

危惧

2014年の連休前からのハードワークさ加減は,思い起こすたび,なんとも非道いものだったと思う。非はおおむね,私の段取りの悪さに由来した。

このところ仕事が立て込んでいて,そのなかで義父の葬儀に一区切りがつく。いきおい,あの連休前を思い出す。当時から変わったところはあまりないし,かえって体力は落ちている。

大事(おおごと)にならないことを祈るかのように,日々仕事を進めるので何だか億劫さが増してくる。

身近で入手できなかったため,アマゾン経由で手に入れてしまった安彦良和の対談集『アニメ・マンガ・戦争』(角川書店)のページを捲りながら,倫理について考えることが仕事からの逃避になっているような現状がもどかしい。大塚英志との対談は最初,読んだときに大塚に押しまくられている安彦という印象だったのだけれど,読み返すと安彦の言い分がとても腑に落ちる。矢作俊彦との対談を本の形で読むために(どれくらい手が入っているのかどうか確認するために)買ったものの,ほとんど同じだった。

手塚治虫

徹や昌己と会った頃,話がかみ合った理由の1つは「手塚治虫体験」のなさだと思う。「少年ジャンプ」「少年チャンピオン」連載の漫画から「ガロ」に接ぎ木された体験のようなものだ。手塚漫画を意識したのは,たぶん泉昌之の漫画を通してだった筈。昭和60年代に入ってから,「奇子」や「きりひと讃歌」など大都社で刊行されていた手塚漫画が,われわれの話のなかに登場するようになった。

どこかで読んだ文章に,似たような感覚をもつのだなあというものがあって,それは手塚治虫が描くフォルムが恐ろしかったというものだ。私は子どもの頃,手塚治虫の線とフォルム,どこかドロリとした感じを受けるそれが苦手だった。というか怖かった。今にして思えば,あの特異な線とフォルムを武器にすれば手塚治虫のその後の評価は違ったのかもしれない。石森章太郎の線とフォルムは冷たく,見るものをグサリを刺すけれど,手塚治虫は生暖かい。洗練されていないゆえに,それは武器になっただろう。

手塚治虫は石森章太郎ほどには絵が上手くないし,カット割りの工夫は,1970年前後にすでに限界を迎えている。キャラクター設定と物語展開の巧みさで1970年代を乗り切ったように思える。それさえ,少なくとも物語展開の巧みさについては,松本清張,水上勉など社会派推理小説から受けた影響が露骨に見える。

われわれにとって,1960年代までの手塚治虫の漫画には思い入れは何1つなかった。「火の鳥」について話した記憶はあるけれど,すくなくとも「鉄腕アトム」を語ることはなかった。手塚治虫を語る私たちは,だから,どこか後ろめたさを常に抱えていた。モンモウ病は話題に出ても「地上最大のロボット」については興味がまったくないのだから。水木しげるやつげ義春とは違うのだ。

かなり後になって,「火の鳥」太陽編に八百比丘尼が登場したときに,昌己がかなり驚き,感動した様子で語ったことを思い出す。

『銀河鉄道999』や『ドカベン』を1冊1円でさえ古本屋が引き取ってくれなかった体験を共有しているけれど,そこに『ブラックジャック』は含まれていなかった。

手塚治虫体験のなさという共通体験は,掘り下げていくと面白いと思う。

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