京都音楽博覧会2016 in 梅小路公園

水族館のイルカショーと被らないようにステージの時間を調整しているため,セットチェンジの時間が20~30分くらいはある。その時間でリユースの食器類を戻しに行って,ビールを買ってきた。

矢野顕子はピアノ一台,「春咲小紅」からスタートした。2曲めは「ばらの花」。伊勢丹の歌のあとは「ひとつだけ」だった。忌野清志郎が「黒い扉」と変えて歌った歌詞は,矢野顕子ソロでは,オリジナル通り「白い扉」だった。最後は岸田繁のギター,歌を交えて一曲披露。何度も聴いているのに,矢野顕子のライブを見たのは初めてだったことに,今更気づいた。

矢野顕子のライブの後半からスタンディングエリアに人が増えてくる。私は反対にシートエリアに戻り,家内と娘とともにMr.Childrenのステージを見た。人気があることはわかった。知っている曲も知らない曲もあり,ボーカリストの見栄えするステージアクション。ギタリストは何だか象さんのポットの片割れにやけに似ている。アコーディオンはチャラン・ポ・ランタンの片方のようだ。サックスとキーボードが目立つような気がした。

雨は降りやまない。ただ,雲の流れが速いので南の空に見える明るい箇所がはやく来てくれることを願いながら,家内,娘と一緒にスタンディングエリアに移動した。ところが何だか雨が激しくなってくる。この感じはWorld Happiness 2014っぽいな。と思っていると,岸田,佐藤がステージに入ってくる。ゲストボーカルに桜井を迎え,「シーラカンス」が始まった。雨音が激しくなる。すばらしい演奏だった。

激しい雨は止まない。時折,稲光と雷鳴がする。World Happinessのときは雷鳴はあまりしなかった。セットチェンジを終えたものの演奏が始まる兆しはない。そこに進行の人と岸田,佐藤が登場し,中止の判断をせざるを得なかった旨,アナウンスがあった。

この状況で,中止を決められるのはすごいな,とすぐに感じた。そんなふうに家内,娘に言っていると,まわりからステージに向けて拍手が起こった。そうだな。これは拍手に値する決断なのだ。

World Happiness 2014は,大事に至らなかったから,ある意味“伝説”をつくったのだけれど,あの状況で開催し,継続した判断自体はどうだったのだろうかと,ときどき思うことがある。結果オーライで済むことと,済まないことがある。たぶん,音博に参加した人もどこか共通した感じを持っていたのだろう。あの拍手は,ステージを終えたミュージシャンに向ける拍手と何ら変わらない清々しさに満ちていた。

京都音楽博覧会2016 in 梅小路公園

娘と昼ごはんを買いに出た。雨は少し降っていたものの,大勢に影響ないくらいだ。たこやきを2皿買ったあたりで雨が強くなる。屋根がついたスペースがあったので,もって帰らずにそこで食べた。家内の分としてアイスプリンとドリップコーヒー2杯。娘はアイスカフェオレを買って,会場に戻る。

ちょうど岸田繁の開会あいさつが始まったときで,そのままオリジナルくるりが登場した。1曲目は「東京」。「虹」「尼崎の魚」「夜行列車と烏瓜」と続き,最後は「さよならストレンジャー」。この頃の曲を聴くと,どうしても70年代前半のデヴィッド・ボウイを思い浮かべてしまう。さまざまな音楽をかき混ぜて,それでもポップになりきれない感じがとても似ている。

2組目はテテ。セネガル出身のフランス人とのことだけれど,まあ,面白かった。誰だろう。すべての音楽はつくられてしまったなどと言ったのは。こんなコード進行で歌ができるのかというのを目のあたりにした。ギター1本とボーカル。このあたりから私はスタンディングスペースに移った。雨はときどき止み,また降り始める。

 

京都音楽博覧会2016 in 梅小路公園

6月末のことだった。今年の音博のチケットが取れた。義父は少しお腹に痛みを感じていたものの,まだ週5日はスポーツクラブに出かけ,HDDレコーダにとりためた料理番組やつり番組,音楽番組をブルーレイに編集して保存する所作を日課にしていた。だから,家内と娘と相談して,お盆には出かけず,音博を挟み2泊3日で久しぶりになる京都旅行の計画を立てた。

幸い旅館は押さえることができ,発売を前に旅行代理店経由で往復の新幹線の便も決めた。

7月に入り義父の様子が変化した。だからまず,宿泊をキャンセルし,日帰りで行き来できる便をあたって,1か月前に新幹線のチケットはとった。それでも最悪,音博+往復新幹線3人分で貰い手を探すことになるかもしれないと,どこかで考えてはいた。

8月末に義父が他界し,葬儀の後片づけに日々右往左往することもなかったので,予定通り,今年の音博に出かけることにした。台風は近づいているとはいえ,まだ九州の手前にあった。家内,娘と最後に出かけた野外フェスは台風をゲストに迎えたWorld Happiness 2014で,あのときを超える非道い状況にはなるまいと思っていた。前日のことだ。

5時過ぎに起き,支度をして品川に向かう。新幹線改札の向かいでサンドウィッチとコーヒーを手に入れ,朝食を済ませる。車内で2時間ほど仮眠をとって京都に着いたのは9時を少し回ったころだ。途中,名古屋あたりから先,曇り空ではあったものの雨は落ちていなかった。京都に着いたときにも傘をささなくても大丈夫なくらいの降り具合だ。念のためコンビニで娘と私の分のレインコートを手に入れて梅小路公園に向かった。

コンビニのまわりにはそれらしき人たちが散在している。西に向かう通りをつきあたり,左手に折れるところで瞬間,雨が強くなった。すぐに止んだものの,今度は線路沿いに右折するところでさらに非道くなり,買ったばかりのレインコートをかぶった。それでも,World Happiness 2014は風が強かったからなあと,事あるごとに比べてはコンサートが始まるのを楽しみに思っていた。

10分くらいで梅小路公園に着いた。チケットとリストバンドを交換し,家内と娘は物販に,私は開場を待つ列に並ぶことにした。小さな子ども連れや高齢の方もいて,その間を水族館に向かう一家が潜り抜ける。ほのぼのとした光景が続いた。

10時半に開場となったけれど,雨は止まない。それでも風は吹いていないのだ。World Happiness 2014に比べれば天国だ,ここは。たぶん。

 

To France

小雨が降っていたような感じがする。犬の糞に注意しながら石畳を歩く。駅で交換した幾ばくかのフランをポケットに携えた。駅でゆっくりしたものの,まだ7時だった。いくら美術館といえども開いてはいない。ポツポツ歩いてポンピドゥー・センターをめざすことにした。途中,バゲットに何やら挟んだサンドウィッチを手に入れた。

しばらくしてポンピドゥー・センター前にはたどり着いたものの,それでもまだ開館前だった。ぐるりと並んだ店を眺めて時間を潰した。一軒のポスター屋にスージー・アンド・ザ・バンシーズの全版があったので思わず購入してしまった。

入場券を購入し,あのエスカレータで上階まで行く。途中,どうした理由か覚えていないが列をはずれて,エスカレータを降りてしまったらそこは図書館だった。いや,図書館に入る列に間違って並んでしまったのだ。しかたないので,図書館を少し見てから,ポンピドゥー・センターに向かう列に入った。

ポンピドゥー・センターは広くて,常設展2フロア,特別展示1フロアで展開されていた。常設展の上の階でみたフランシス・ベーコンとイブ・タンギーの絵のことは今も覚えている。作品の記憶は,四半世紀を経て,その数日前に行ったヴェネチアのグッゲンハイム美術館と混ざってしまった。どちらに展示されていた作品も気に入ったことだけは覚えているのだけれど。

ポンピドゥー・センターを出ると昼を過ぎていた。同僚に頼まれものを手に入れるためにデパートに行くことにした。リムジンバスは凱旋門から出るというので,その近場のデパートに行けばあるだろうと思ったのが間違いのもとだ。アニエスベーのグレーのベレー帽,それも「ニットでできているもの」という注文だ。地下鉄で凱旋門まで行き,地図を片手にデパートのあたりでアニエスベーを尋ねる。あ,これも違うな。最初,アニエスベーの本店に行こうと思ったのだ。それでその通りをデパートで尋ねたのだけれど,誰も答えない。初手から何を尋ねているのか通じていないからだ。唯一,ある高齢のドアマンが困り果てたアジア人の話を聞いてくれた。しかし,返事は「ここから遠い」の一言。話が通じない外国人にわかるような説明を期待するのは,ないものねだりだろう。

それでも,一度はアニエスベーの本店に行ったような記憶がある。学生街に店を構えていたので,本店ではなく,地図上ではそこが一番近い店だったのかもしれない。行ったもののベレー帽の在庫はなかった。そこから凱旋門まで戻り,シャンゼリゼまで下り,こちらこそ本店だったのかもしれないアニエスベーを見つけた。ベレー帽もあった。くたびれた。

夕方にリムジンバスでシャルル・ドゴール空港に着いた頃には非道い雨風になっていた。免税店で購入したのはサンデマンというポートワイン。フランスでなぜポルトガルのワインを買ったかというと,砂男をあしらったラベルが恰好よかったからなのだけれど,帰ってから伸浩と二人で1瓶空けた翌日,おそろしい頭痛に襲われた。ポートワインを1瓶飲んだのだから仕方ない。当時はそんな常識も持ち合わせていなかったのだ。

ようやく離陸体制に入った飛行機は一度,ストップし,天候伺いになった。外の様子はほとんど変わりないにもかかわらず,再び離陸体制に入る。飛び立って1時間ほどは生きた心地がしなかった。少し揺れがおさまったころにドリンクサービスが始まったので,私はタンカレー2瓶(もちろんミニボトル)とトニックウォーター,レモンを頼んだ。速攻で濃いめのジントニックをつくり2,3杯飲んだ。仮に胃がひっくり返ったとしても,飛行機の揺れのためかアルコールのためか,これでわからないだろう,などと,何のための理屈なのかわからないことを呆けた頭で考えているうちに,眠りに落ちた。

To France

ミラノを出発するのは20~22時くらいだった。ホームまで弟が送ってくれた。上野駅から北へ帰るような塩梅で,妙に感傷的になったことは覚えている。コンパートメントは3段ベッドで,イタリア人一家と黒人のシスター2人と一緒だった。早々にパスポートを車掌に預ける。

弟のところでつくってもらった弁当を食べ,しばらく通路にあつらえられたシートに座り時間を潰していると,ベッドをつくる時間になった。じゃまにならないように手伝って,つくり終えて,そのまま横になったのだけれど,どうも様子がおかしい。イタリア人一家がコンパートメントから出ていく。カーテンを閉め,もってきた本を捲っているとコソコソと音がする。そこでようやりシスターが着替えをしているのだとわかった。今さら出るに出られず,そのまま潜んだ。

なかなか寝つけずに1,2回廊下に出る。暗闇のなか,どうも寝台列車が動いている気配がない。明け方3時,4時,時間調整のため,20分くらいは平気で止まっているのだ。これは国内の寝台列車も同じだったような気がする。

リヨン駅に着いたのは5時過ぎだった。これから朝食をとって,近くのピカソ美術館を訪ねる。同僚に頼まれたアニエスベーの帽子を手に入れた後,時間をかけてポンピドゥーセンターを巡り,バスで空港まで行く予定だった。

しかし,英語さえおぼつかない私にフランス語は荷がかちすぎる。巷でいわれるとおり,フランスで英語を使ってコミュニケーションをとることは絶望的な困難さを伴う。そこから10数時間,ガイドブックを読み,適当に発音した私の音声は,だから誰にとっても意味をもたない音だった。もちろん,私にとってもそれは同じこと。

 

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