Limit

「金はないけど欲しがるには充分な能力はある。体力だって捨てたもんじゃない」
「体力?」
「ああ,欲望し続けるにも,所有し続けるにも体力がいる。相当な体力だ」
矢作俊彦『ドアを開いて彼女の中へ』(東京書籍)

40代になってから先のある日のことだ。もはや手元の本や雑誌,そのすべてを読み返すことはできないのだなと感じたことがある。映画でもCD,レコードでもいい。年をとるというのは,所有したものすべてを反芻するには時間が足りなくなっていくということだ。

古典にせよ,新しいものにせよ,とにかく読みたい,聴きたい,観たいという欲求が起きたならば,だから若いうちから数を体験しておくことを薦める。といっても,そんなことを伝えられるのは,せいぜい娘くらいだけれど。

作品がコンテンツ化され(どこがどう違うのかはさておき),ストリーミング配信の後,定額でいくらでもアクセス可能な環境が目の前に現れた。

それらにまったく食指が動かされないのは,あらかじめそのすべてを体験することなどできないものを目の前にぶら下げられている,というか1か月の対価を払うことで所有しているかのように感じさせるビジネスモデルが心底気に入らないからなのだ。

住宅ローン

何だかとても所帯じみているな。

住宅ローンを借り換えるため,午前中一番で地元の銀行に出かけた。数回,打ち合わせをしているので,契約書を交わすだけなのだけれど,それでもかなり面倒くさい。これまでの抵当権の抹消し新たに設定するため司法書士に入ってもらうところから始まり,それが終わると固定/変動金利を選ぶ。何枚もの契約書にサインをして押印していく。ついでに通帳の更新やネットバンキングの再申請書類も書いたものだから,2時間近くかかった。

住宅ローン返済のため,毎月,指定の口座から引き落とされている金額はほぼ把握しているけれど,記帳せずに数年そのままにしていたため,ここしばらく正確な額を確認せずにきた。そんなふうにしていると一事が万事に,バグのようなものが溜まってくる。ときどき,えいやっと腰をあげ掃除しておかないと,いったい何がどうなっているのかわからなくなってくるのだ。

それから仕事に出て19時くらいに事務所を出た。中断していた木田元の『反哲学入門』(新潮文庫)をまた読み始めた。武谷技術論がスピノザに至る前提のようなものを,とてもわかりやすく解説しているように思うが,これは暗記するくらいに読み返さないと身につきそうにない。そんな本がしばしばある。

芳林堂書店で池内了『科学者と戦争』(岩波新書),読書会の課題本,澤田瞳子『日輪の賦』(幻冬舎文庫),「波」の最新号を手に入れた。家内と娘が夕食を済ませてくるというので,そのまま地下の居酒屋でビール1杯と4点盛り。もう一軒で軽く飲んで家に帰る。寝る前に『日輪の賦』を読み始めたものの,手塚治虫の『火の鳥 太陽編』を思い出してしまい,ページを閉じてしまった。

ていねいさ

「生活へのていねいさが感じられないんですよね」

会議の席でそう言われたときには気にならなかった。そんなものなのか,と。それが数か月前のことだ。

その後,「ていねいさ」という言葉があちこち,特殊な用いられ方で登場していることに気づき,驚いた。なんだ? ていねいさって??

「がさつ」ではなく「ていねいさが足りない」というように,それは用いられることが多い。まるで「病気」ではなく「健康への配慮が足りない」とでもいうような,何か心性がそこに働いているのだろうか。違和感を覚えたのは,「ていねいさ」とは除外診のようのものだと,私がとらえていたからなのかもしれない。除外診が大手を振って歩き始めることの危険性は,ナチスの優生保護法や健康志向がイヤというくらいに知らしめたにもかかわらず。

優生保護法をそれ自体で価値判断するのではなく,ナチズムとの整合性をもって見なければならない。もちろん,ナチズム下における優生保護法はまったく理に適っている。つまり優生保護法それ自体が非ではなく,優生思想を生むナチズムが非なのだということだ。

それと「ていねいさ」を同列に考えることはないだろうけれど,なんだか,きな臭いんだよな。

ジム

午前中遅めに起きた。暑いのでシャワーを浴びて朝食をとる。予約していた歯科医院に出かける。急患が2人入ったようで20分ほど遅れて診察台に。前回処置した箇所をチェックしてもらい,一通り掃除して終了。歯の治療より歯垢掃除のほうが痛いのはどうしたことだろう。

池袋経由で事務所に行く。暑い。しおたれた様子の木々を何枚かiPhoneで撮影してしまった。

17時過ぎに事務所を出て,新宿スポーツセンターへ。改修工事に半年くらいかかっていたので,昨年の秋以来。待ち合わせた家内は調子が悪いようなので一人でジムに入ることにする。管理会社が変わり,改修前の回数券が使えないと言われたのだけれど,事前にそんなことになるアナウンスを聞いたり読んだりした記憶はない。重い腰を上げて久しぶりにやってきたのにいやな感じだ。とりあえず前の管理者の連絡先を受け取り,新たにチケットを購入する。受付の対応がよくないように感じるのは当然だ。

ジムの中はそれほど変わっていないものの,ストレッチの指導ビデオは立位で行なうものからスタートする。そんなのできないじゃないか,普通。文句をためながらそれでも小一時間動いた。

家内と二人で,高田馬場ビール工房に入った。ここも店の人の対応がよくなかったなあ。こんな日に出会うのは非道い奴ばかり。ビールはまあまあ。冷えすぎていないのはよいのだけれど,かといって,少しだらり力の抜けた感じがした。食べ物はこんなものだろう。

駅前のスーパーマーケットで買い物を終えて出たところで娘と会った。

早めに布団に入り,数十年ぶりにページをまくった横溝正史の『蝶々殺人事件』を読み終えた。坂口安吾が絶賛した記憶ばかり残っていて,こんな小説だったということをすっかり忘れていた。もちろん犯人も覚えていない。にもかかわらず,いま一つ面白くなかったな。

政治

彼(堀口大學)は,歴史をお伽話のように感じるわけだよ。でも歴史ってしょせんはお伽話だから。歴史がいくつもの人の口に咀嚼されてお伽話になったわけでしょ。 閔妃暗殺事件に関して言えば,問題は稚拙だってことなんだよ。海江田少佐が言ったことがすべてだよね。政治とは善悪ではなくて,巧拙だと。あれはあまりに稚拙だから,人から非難されてる。 (中略) 勝海舟が言ったように,政治の方途に倫理はない。悪い方法か良い方法か,つまり巧拙はある。朝日新聞が言うような「善意」だとか「良識」では歴史は動かないんだよ。時代ってのはもっと意志のない無味乾燥なもんで,泥だらけの道に雪だるまを転がすようなもんだよ。そこには意のつくものはないんだよ。力学の問題でしかない。その簡単な事実に,大學が気付くという話だよ。 なるべくドロのない雪の沢山残っている坂を転がせば,雪だるまは白く大きくなるでしょう。メキシコ革命で,九萬一は上手にふるまうんだよ。で,逆に大學は その巧さに違和感を持つわけだ。皮肉なことにね。父親が十余年で学んだ技術に鼻白むんだ。

矢作俊彦(インタビュア:月永理絵):新作『悲劇週間』について語る,nobody,No.19,p.33,2005.
この時期になると,思い出す。1990年の高円寺駅北口から延々と。
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