堀江敏幸の『郊外へ』を読みながら夕飯を済まそうと思った。

池袋東武の11階から上がリニューアルされた。先日,家族と使ったとき,なかなか感じがよかったので,ぐるりとまわり店を探してみた。一人で入るにはコストパフォーマンスがよくない。結局,地下まで戻り,このところときどき入るようになった池袋ホープセンターのとんかつ大吉にした。

19時過ぎだから,店内は混んでいる。柱を囲むように据えられたカウンター席へと案内される。ジャケットを脱ぎ,鞄から本を取り出した。

右隣の男は,串揚げを肴にホッピーを飲む60歳近く。左隣は私と同年代のサラリーマン風で,ブックカバーをかけた本を読んでいる。喫茶店でさえ,他人が本を読む姿を目にすることは少ない。めずらしいなと思いながら,向かいのサラリーマンに目を移すと,こ奴も本を読んでいた。本を読む男2人と同席となると,不自然さを感じてしまうくらい,それはいまやほとんど目にしない光景だ。

ところが,その奥のテーブル席に座る男も本を読んでいた。こ奴ら,とんかつを待ちながら,スマホをチェックすることなく本読んでいるのか。ここに至って『郊外へ』を読みながら夕飯を済ますためにとんかつ屋に入ったのがまちがいではなかったことに気づく。

次に入ってきた客も書店で買ったばかりなのだろうか,カバーがかかった本を抱えている。

本ととんかつの相性が良いという話はもちろん聞いたことがない。

Kindle

少し前,FBに山野浩一さんがKindle fireを購入したと記していた。電話以外,ひととおりの機能はこれでまかなえる,というような感じだったと思う。「GRAPHICATION」が電子版に移行した昨年末あたりから,タブレットを手に入れるかどうか考えていた。とりあえず読みたいのは「GRAPHICATION」くらいで,他は電子版の世話にならずとも,今の環境で間に合うのだ。

すでにアマゾン・プライム会員になっていることも後押しし,この前,Kindle fireを買った。

よかったのは,自宅のWiFi接続時以外はSNSに繋がらないことだ。このマイナス機能が本を読むのにとてもよい。会員は月一冊無料で読めるというので,早速『幻魔大戦deep(1)』をダウンロードした。それほどの分量がないからなのか,金曜日の通勤途中と,土曜日に花粉症対症療法の注射を打ちに行き,池袋で昼食をとりおえたくらいの時間で読み終えた。物語を読む,というより読み進めるのには,それほど悪い感じはしなかった。左手で画面を押して捲るページの感覚,それに適当なリズムがあるのかもしれない。版面はそれに即して決めていいのかもしれないけれど,版面の美しさとか,かなと漢字のバランスとか,そのあたりには一切かかわりのないものだと思う,これは。

それにしても平井和正の小説が昭和60年代あたりから,どれくらいつまらないものになったか,その証のような小説だ。『幻魔大戦』4巻以降の新興宗教小説化は,ねずみ講の被害者体験のように,それでも容認できるところがあったのだけれど,『地球樹の女神』後は,新しい小説を読んでいない。『サイボーグブルース』は数年に一度読み返すことはあるし,手元に残っていたならば“アダルト・ウルフガイ”シリーズだってハードボイルド小説としてページを捲りたくなることがあるかもしれない。元々,文章は上手いし,そのつど表現方法を開拓していった小説家なのだけれど,その衰えを今更ながらさびしく感じる。

「GRAPHICATION」はネット経由で読むことができた。パソコンからでもできるものの,まあ,それが読めるようになったことは,もうひとつよかったことだ。

打ち合わせ

午後から仕事の打ち合わせがあるため,休日というものの,いつもに比べ1時間遅れで事務所に行った。YoutubeでEnoの“By this river”関連を聴きながら企画書を2本まとめた。

渋谷マークシティのエスタシオンカフェで2時間ほど打ち合わせ。一人で考えているとどうしても隘路から抜けられないところが,次々と展望が拓けてくる。

1階まで降りるとビル風も加わって,かなり吹き晒された。久しぶりに渋谷古書センターに入った。めぼしい本がなかったので,高架下まで戻り,カレー店で遅めの昼食をとる。家内,娘と日本橋で待ち合わせのため,銀座線に乗る。

日本橋高島屋でピカソ展を見る。全体,絵画が少なく,「立体」や「被写体」としてのピカソなど工夫して展覧会を成立させようとするのだけれど,リトグラフの原板を見たいと,どれくらいの人が思うのだろう。絵画中心に流して見終えた。6月から東京都美術館で開催される「ポンピドゥ・センター作品展」の案内を入手できたのはうれしい。

地下2階で休憩して,八重洲地下街まで歩く。すでに19時を回っている。少し前まで八重洲地下街にも古本屋があったのだけれど,いまは女性向けの店と飲食店に集約されてしまったようだ。ツイッターの書き込みをしながら買い物を待つ。つくづく東京駅と八重洲地下街は小奇麗になったなあと思う。東京駅はそれでも収拾がつかなくなっている様がひっかかってくるものの,八重洲地下街は消毒された野菜のようで味も素っ気も感じられない。

夕飯は和食店に入ってとった。オアゾまで歩き,ドゥバイヨルでショコラフロウを飲んで休憩する。大手町経由で家に戻ってきたのは22時過ぎ。

成子坂下

「あれだけ長いと,それはわかりますよ」葦野は即答する。

「こっそりTOEICのテキストもっていって勉強してるんです。この会社,それくらいにしか使い道がないじゃないですか」酒本は辛辣というか,給料を得ている立場からもっとも遠いところにいるかのように語る。彼が会社帰りに英会話教室へと通っていることは聞いていた。そちらのほうが本気だったのだ。

「資格とって転職しないと,いつまでもこんなところにいられませんよ」

こんなところにいるわれわれは頷いた。

その後,しばらくして酒本君は上司に呼び出され,その勤務態度を質された。「なんでトイレ時間が長いんだ?」などというやりとりがあったであろうことを想像すると,何だか当時の緩い感じが蘇ってくる。

一度だけ会社帰りに坂本君と映画に出かけたことがある。このことも以前,記した記憶がある。その頃,酒本君はヤクザ映画と大量殺人者に関する記録に興味をもっていた。その手の本がさまざまな仕立てで刊行された頃だったので,何かの機会で目にしたのかもしれない。「ほんと,ダメな奴らなんですよ」過度に感情移入するわけでもなく,どちらかといえば,というか明らかに見下していながらも,それらの本に関心をもつ自分に対しての視線は無防備だ。

同じ職場にいたからというだけで,酒本君と私の接点はあまりない。それでも1年と少しの間とはいえ,決して少なくない会話をし,どちらかというと親近感をもったのは,その自分に対する視線の無防備さになにがしかの面白さを感じたからだろう。

新宿武蔵野館で「ヘンリー」を観に行った話も書いたと思う。酒本君の感想は「しょうがないなあ」の一言だった。

しばらくして事務所が移転し,酒本君は退職した。成子坂下は日々過ごす場所ではなくなった。事務所があったビルに用事のため出かけたことがある。昼時にかかったので,しばらくぶりにあの喫茶店に入ってみた。老婦は健在で,私を見た途端,うれしそうな顔をして席を案内した。

「久しぶりねえ。みんなに来てもらうよう言っておいてよぉ」

「事務所が移転したんです。今日は用事があったんで久しぶりに来たんですけど」

「そうなのぉ。さびしいねえ」

昼時だというのは客は私だけだった。

 

成子坂下

昼になった。いつものように3人で成子坂下の喫茶店に入った。

老婦の逆オーダーに抗う不毛さに疲れはじめていたので,概ね3人とも同じメニューを頼むことが多くなった頃のことだ。つまり,この店の“常連”とは,老婦の逆オーダーに従う客を指す。気がつくと,昼時には混雑していたのに,その頃はやけにすっきりとしてきた。他の店に客を取られたのか,ここより少しはましな店を探し出されてしまったからなのか,昼時の店内には“常連”しかいなくなってしまった。オーダーはもちろん老婦が決める。

その日,食事を終え出されたコーヒーとともに何だか怪しげなものが並べられた。「サービスするからねぇ」と老婦に言われても,はじめは何のことだか理解できなかった。

「これ,食べていいんですかね」,目の前のコーヒーゼリーを見ながら酒本がいう。

「そういうことなんじゃないですか。でも大丈夫かな,これ」

葦野はゼリーにスプーンをさそうとした。途端,「これ,ダメですよ」。

コーヒーゼリーにだって賞味期限はあるのだろうに,われわれの前に出されたそれは,いつ作られたものかわからないほど経年劣化したものだった。はじめからそうだったのかどうかわからないけれど,何より困るのはゼリーだというのに硬すぎて,ゴムのようにスプーンを弾くことだった。

「これ,ゴムじゃないですよね」

「たぶん,ゼリーだと思うけど」

罰ゲームのようなそのコーヒーゼリーを,それでもわれわれは食べたのだと思う。会計のときに「ごちそうさまでした」と添えたので,気をよくしてしまったのか,それから霜のおりたアイスクリームと交互でしばらくの間,老婦の「サービス」は続いた。

成子坂下の喫茶店で昼食をとりながら,いきおい話題は会社への不満になってしまう。しかし,酒本君は給料さえもらえれば,あとはどうでもよいのだろう。私と葦野のやりとりにのらりくらりと相槌を打つくらいだ。

「酒本さん,トイレの時間,何か言われませんか?」あるとき,葦野がトイレのことを切り出したのは,決して義憤にかられてからではなく,酒本君をネタに昼の時間をやりすごすためでしかなかったと思う。酒本君も「あれ?,気づいてました?」ほとんど漫才のようなやりとりだ。(つづきます)

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