成子坂下

昼になった。いつものように3人で成子坂下の喫茶店に入った。

老婦の逆オーダーに抗う不毛さに疲れはじめていたので,概ね3人とも同じメニューを頼むことが多くなった頃のことだ。つまり,この店の“常連”とは,老婦の逆オーダーに従う客を指す。気がつくと,昼時には混雑していたのに,その頃はやけにすっきりとしてきた。他の店に客を取られたのか,ここより少しはましな店を探し出されてしまったからなのか,昼時の店内には“常連”しかいなくなってしまった。オーダーはもちろん老婦が決める。

その日,食事を終え出されたコーヒーとともに何だか怪しげなものが並べられた。「サービスするからねぇ」と老婦に言われても,はじめは何のことだか理解できなかった。

「これ,食べていいんですかね」,目の前のコーヒーゼリーを見ながら酒本がいう。

「そういうことなんじゃないですか。でも大丈夫かな,これ」

葦野はゼリーにスプーンをさそうとした。途端,「これ,ダメですよ」。

コーヒーゼリーにだって賞味期限はあるのだろうに,われわれの前に出されたそれは,いつ作られたものかわからないほど経年劣化したものだった。はじめからそうだったのかどうかわからないけれど,何より困るのはゼリーだというのに硬すぎて,ゴムのようにスプーンを弾くことだった。

「これ,ゴムじゃないですよね」

「たぶん,ゼリーだと思うけど」

罰ゲームのようなそのコーヒーゼリーを,それでもわれわれは食べたのだと思う。会計のときに「ごちそうさまでした」と添えたので,気をよくしてしまったのか,それから霜のおりたアイスクリームと交互でしばらくの間,老婦の「サービス」は続いた。

成子坂下の喫茶店で昼食をとりながら,いきおい話題は会社への不満になってしまう。しかし,酒本君は給料さえもらえれば,あとはどうでもよいのだろう。私と葦野のやりとりにのらりくらりと相槌を打つくらいだ。

「酒本さん,トイレの時間,何か言われませんか?」あるとき,葦野がトイレのことを切り出したのは,決して義憤にかられてからではなく,酒本君をネタに昼の時間をやりすごすためでしかなかったと思う。酒本君も「あれ?,気づいてました?」ほとんど漫才のようなやりとりだ。(つづきます)

成子坂下

以前,記したことがあるかもしれないけれど,成子坂下のビルに事務所があった頃,酒本君という同僚がいた。彼は20代前半で,私が入った1年後に入社し,それから1年ほど一緒に仕事をした。

仕事中に話すことはなかった。話すのは,昼食をとりに外へ出るときと,仕事を終えJR新宿駅まで一緒になったときくらいだった。

会社だからいろいろな人がいる。今にしてみれば酒本君は年相応,変わったところはない。でも,その当時,「変わった奴だな」と思っていたことは覚えている。付き合いはよくない。私生活についてはほとんど話さない。話に感情がこもるのは怒るときくらいだ。会社については見下したような様子で,「腰掛でいるのだなあ」と誰もが感じていた。

事務所には化粧室がひとつしかなく,そこは女性が使うことに決まっていた。男性は一度,ビルの外廊下に出て,2フロア下にある共同トイレを使う。

酒本君がトイレに行くと1時間近く戻ってこないことに気づいたのは入社しばらくしてのことだった。仕事中の1時間だから,それは長い。同じプロジェクトにかかわっていた奴はそれでも気のよい奴だったので,お腹の調子が悪いのだろうとくらいにしか感じていなかったようだ。そ奴が酒本君のトイレについて何か言うようになったのは,かなり後だったと思う。

昼食には成子坂下の喫茶店に出かけることが多かった。行くのは私と葦野,そこに酒本君が加わった。その喫茶店は,志村けんが扮するラーメン屋の老婆をそのままこの世に降臨させたような老婦とその連れ合い,2人で切り盛りしていた。

メニューの数はそれなりにあるのだけれど,調理ひとりフロアひとりでこなすものだから,とにかくできてくるのが遅い。それぞれが食べたい品を頼むと,ボソリと「Aランチだと早くできるんですけどねぇ」,老婦のそんな声が聞こえてくるのだ。葦野も酒本君も,初手からそんな誘いに乗るような奴ではなかった。それぞれにオーダーし,昼休みギリギリに戻るような日が増えた。そしてある日,老婦は「同じメニュー注文してくださいませんかねぇ」と切り出してきた。私たちにとって,それが,これっぽっちもなるつもりではなかった“常連”にさせられてしまった瞬間だと気づいたのは,それから数日,経ってのことだった。(つづきます)

記憶

昨年11月のツイートに加筆。

閉店少し前にブックス高田馬場で手に入れた高木護『爺さんになれたぞ!』(影書房)をようやく読みはじめる。髙木護というと,『辻潤-「個」に生きる』(たいまつ新書)を読んだくらい。最近,リトルマガジン「街から」(街から舎)にときどき寄稿されていることを知った。「街から」には平井玄の連載もあって面白い。

――ただいま。帰ったよ 〝ただいま〟をいうのは、家に帰ったというけじめである。迎えてくれるものがいなければ、――お帰り。お疲れさま 自分でいえばよい。そうすれば、〝お帰り〟といってくれたころの、あのなつかしい声が聞こえてきそうなので、 ――ただいま もう一度いってみる。

先に母親が亡くなった後,一人暮らしになった父親は,家を出るとき「行ってきます」,戻ると「ただいま」と言っていた。私がいないときも,同じようにしていたのだろう。父親が亡くなった後,記憶にだけ残っている所作の一つだ。

芳林堂書店

2月5日,会社帰りに芳林堂書店高田馬場店をのぞいた。受験帰りの家内,娘と待ち合わせたのだ。

エスカレータをのぼっていくと,新刊入庫遅れのお詫びが張り出されている。2,3日の滞りだから全体,いつもと変わらない様子だった。レジの近くで昌己夫妻と出くわした。

「あれ見たか?」

「見たよ。理由は書いてなかったけどな」

「写メ撮っちゃったよ」

昌己はうれしそうに笑った。もちろん,そう見えただけのことだ。

昌己夫妻がエスカレータを降りていくとの入れ違いに,反対側から家内と娘の姿が見えた。まるでコントのようだった。

数日後,ふたたび会社帰りに芳林堂書店に立ち寄った。まだ次の取次は決まっていないらしく,さすがに棚に空きが目だってきた。本を購入すると棚が空く,買わないと資金がショートするかもしれない。メモリ不足のサーバにアクセスしていいのか悪いのか思案しているみたいに棚を眺めた。とりあえず菊竹清訓の『代謝建築論』を購入した。足を運べばこういう本が棚に並んでいる書店は何をおいても応援する。その方法がはっきりしないのが悔しい。

新井薬師前に住んでいた頃は平成になったばかりで,バブルはほとんど終わりだったのだけれど,私にはバブルの恩恵も被害も何一つ受けた記憶はない。町並みにはその影響はあったのだろう。高田馬場駅前で羽振りがよかったのはレコードショップのムトウだった。本店に加え,その反対側の角の2階と,一時はビッグボックスの2階にも店を構えていた。

その頃の芳林堂書店の記憶は実のところあまりない。駅前から明治通りに向かう道の左右には覚えているだけでも3軒の書店があったし,もちろん芳林堂書店の池袋店が店を開いていた頃のことだ。ビッグボックスの2階には小さいながらも三省堂書店さえあった。今よりも芳林堂書店高田馬場店の必要性は正直,なかったのだ。

それから数年,21世紀へのカウントダウンが始まる頃になると,ムトウは次々と店を畳み,21世紀に入ってしばらくして本店さえも消えうせた。同じように何軒もあった高田馬場の書店はいまや芳林堂書店高田馬場店をのぞくと,西口のあおい書店だけになってしまった。

昨日,久しぶりに中古レコード店タイムをのぞこうと思ったところ,閉店していた。昔はあの少し先にレコファンもあったのだけれど。

なおさらに芳林堂書店高田馬場店は何とか続いてほしいのだ。

寺と石

法事。

11時すぎに家内と家を出る。春のような暖かさ。西船橋で総武線に乗り換え船橋で降りる。東武のフラッグスカフェで昼食をとり,バスで寺まで行く。強風。まだ新しい寺は石造りというかコンクリート打ちっぱなしのデザイナーズマンション風のつくりだ。母親の葬儀の際にはじめて伺ったとき,いわゆる“お寺”の雰囲気との差に少し戸惑った。今回の参列は家内と二人だけなので,20分くらいで終えた。

バスで船橋まで戻り,夕飯用にできあいのものを見繕う。デパートをみていくという家内と別れ,まずは飯田橋に向かう。

乗り換え時間30分以内に間に合うだろうかと思いながら,ブックオフに入る。コンビニ本の「一本包丁満太郎」3冊と『スピノザの時間』(講談社現代新書)を見つけ購入。少し前,新刊書店でのスリップリーディングについて記事を読んだことがあるけれど,古書店で通用するのだろうか。ビッグ錠の漫画を探している人はスピノザにも興味がある,というのはなんだかおかしいな。

飯田橋のスタバで「一本包丁満太郎」を読みながら少し休憩し,有楽町線経由で池袋に。ISPでおかずを買い足し,ひばりが丘の義父のところで夕飯をとる。

21時半くらいにバスで田無駅まで行き,ブックオフをのぞくが,閉店間際で何も買わずに帰る。

 

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