Decade

どうしたわけか昭和50年代の終わりに,グループサウンズのバンド(という表現がよいのかわからないけれど)が復活してテレビに出ていた。ライブも行なわれていたようだ。同じ頃,ザ・ファントム・ギフトはじめ“ネオGS”と称されるバンドが登場した。1964年生まれの私にとってGSのリアルな体験があるはずはない。昔のニュース映像などで,こんなことがあったのだと理解した程度のことで,それを格好よいとか何とか思いはしなかった。いまだに,GSのよさ(があるのならばだけれど)はわからない。

その頃,観る番組がないときに,復活したGSバンドが登場するものにチャンネルを合わせたのは,だから,決して私が観たかったからではなく,(どうせ)両親はこういうバンドを観て懐かしむのだろう,という程度の気持ちの向け方からでしかない。

GSの最盛期を仮に昭和42年頃とすると,17,8年前を懐かしんでいたことになるのだと気づいたのは最近のことだ。現在を基準にすると,それは20世紀末あたりだと思った途端,愕然とした。昭和50年代の終わりに感じたGSの古色蒼然とした感じは,どこからきたのだろうか,と。

記憶違い

半世紀も生きてくると,記憶と事実の食い違いがさまざまに生じてくる。

この前も書いたけれど,初めてキング・クリムゾンのライブを見た渋谷公会堂。ここ20年くらいは1981年12月7日だと思い込んでいた。ところが先日見つかったチケットをみると12月9日と記されている。

昨日,学生時代の友人たちと池袋で飲んだときのこと。喬司が「卒論発表のとき,寝坊して行かなかったからなあ」という話になった。

「あの,鼻歩類の卒論か」私と昌己が反応する。

「なに言ってるんだ,鼻歩類は一部だよ。卒論のテーマは違うぞ」

「“進化の異端児・鼻歩類”っていうのがタイトルじゃなかったっけ?」

「善悪についての卒論だよ」

まったく知らなかった。こ奴が善悪を語るなんて。

「ニーチェみたいだな」

「いくらなんでも鼻行類だけで卒論書けるわけないじゃんか。悪と言われているもののなかに善があるんじゃないかってのがテーマだったんだよ」

あの日,喬司は出てこない。徹と裕一は共同発表とは名ばかり,かけあい漫才のようなことをしていた。でも,卒論はそれぞれ提出したはずなのに,なんで漫才していたのだろう,あの二人は。

私と昌己,伸浩は普通の発表だったけれど,テーマはキッチュだとか奇矯,自殺だし,暗いったらありはしなかった。

「30年目の卒論発表会やりゃいいんだよ。教師も乗ってくるよ」昌己が言う。カセットテープやマンガ原稿といった先輩のものとともにゼミ室に卒論は残っているはずだ。

記憶というのは現在をもとに規定されるというから,あの頃,たぶんそう思い込む何かがあったのだろうけれど,もちろん覚えていない。

David Bowie

「ジョン・レノンの時を思うといろいろ考えさせられる」という弟からのダイレクトメッセージ。

私がジョン・レノンを知った昭和50年代は,ジョン・レノンはなかばリタイアしていたので,ときどき「牛数頭を購入」というニュースが出るくらい(ロック ミュージシャンがなぜ,牛? という素朴な疑問があったことを思い出す)。「ダブル・ファンタジー」でカムバック後の事件に驚きはしたものの,同時代感には乏しかった。北山修がラジオで「これがビートルズなんです」なんて言うのを斜に構えて聞き流した。やけに団塊の世代は囃し立てた。1980年代になって北山修の活動にいま一つ興味を持てなくなったきっかけは,今にして思うとジョン・レノンの事件だったのかもしれない。

ではデヴィッド・ボウイが同時代人なのかというと,「スケアリー・モンスターズ」がジャストなだけで,たとえば「ジギー・スターダスト」は,オリジナルアルバムではなく,1983年に突然リリースされたライブアルバム・映画を観て驚いたくらいの後追い。あれはキング・クリムゾンの「アースバウンド」を数倍上回る衝撃的な音圧だった。いや,いまだに。

「スケアリー・モンスターズ」以降,「レッツ・ダンス」までの数年のことがやけにリアリティをもって迫ってくる。

英国では,「戦後世代」というニュアンスで伝わるものがあるのかどうか知らないものの,ある時期までのデヴィッド・ボウイは戦後生まれのトップランナーだったような気がする。ジョン・レノンやポール・マッカートニー,ローリング・ストーンズの面々などとの一番の違いは,結局,彼が戦後生まれだったところに起因するように思うのだ。

夜と霧の隅で

「少なくともヨーロッパ人はずっと戦争というものを知っている。国境を,民族を,征服することと征服されることとを知っている。その点日本はどうなるのであろう。万一負けたとしたら,我々はその事態に対処できるのであろうか。」

「一人の医師として,気の毒な患者さんたちの生命が不要な廃物のように篭に投げこまれてゆくことを傍観したくはなかった。しかしSSの命令を同時に彼は知っ ていた。一人二人の生命を僥倖によって救ったとしても,それはほんの正面の戦線をむなしく死守するようなものではないか。そうした絶望的な状態を反芻しながら、ケルセンブロックは建物の前だけきれいに雪のかきのけられた舗道を辿っていった。もう駅は遠くなかった。」

北杜夫「夜と霧の隅で」

「建物の前だけきれいに雪のかきのけ」る所作を象徴的に用いた北杜夫のレトリックと村上春樹のそれを比べてみる。

「ごみ集めとか雪かきとかと同じことだ。だれかがやらなくてはならないのだ。好むとこのまざるとにかかわらず。

僕は三年半の間,こういうタイプの文化的半端仕事をつづけていた。文化的雪かきだ。」

村上春樹『ダンス・ダンス・ダンス』

村上春樹の「文化的雪かき」は中途半端だな。

 

徒歩記

茗荷谷から大塚まで歩き,そのまま池袋に向かった仕事帰り。震災の日でさえ,速達を出すために池袋中央郵便局まで歩いた。よく大塚から池袋まで歩いたものだ。

20年以上前,東池袋と春日通りを挟んだあたりにオーストラリア料理専門店があった。オーストリアではない。オーストラリアだ。オーストラリア料理専門店だから,当然,ワニのステーキやハンバーグといった料理がメニューに載っている。にもかかわらず,私は東池袋で以外,もちろんオーストラリアでもワニを食べた記憶はない。

速達を出すために池袋中央郵便局まで歩くたびに,だからワニのハンバーグを思い出してしまうのは条件反射のようなものだ。

その日,明日着くかどうかとは考えず,速達を出し終えるとそのまま都電荒川線に乗り,学習院下で降りた。都電荒川線はタフだ。王子方面行きはそれでも鬼のように混 んでいた。早稲田行きは空いていた。見ず知らずのおばさんが,近所のコンビニがトイレを貸さないと愚痴るのに頷くことができるくらいだった。

明治通りを渡ったところに中華料理屋があった。満員ではなかったので,待たずに夕飯にありつくことができた。にもかかわらず,あの特殊な日に何を食べたか思い出すことはほとんどない。オーストラリアで食べた怪しげな中華料理が記憶にないのと同じように。

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