5/26

営業事務はその時期によって行なうことは変わる。いや,同じことを繰り返しながら,違うことを進めるイメージだろうか。失礼ないいかたかもしれないが,ルーティンを覚えてしまえば,日→週→月→年と一定の変化のなかに身を置くかのよう。この1週間,新鮮ではあるものの,この仕事のプロになろうとは思えない。

編集と営業事務(経理を含む)の違いを看護と介護の違いに照らしてまとめるとこんな具合になる。

疾患や障害,加齢などにより,それまで営んできたようできなくなったその人の生活を維持・継続していくためには,1)その人の代わりにできる支援(介護,この場合,家事援助)と,2)看護(生活行動援助)が必要になる。

介護(家事援助)は,その人が行なってきた生活のなかで,代替可能なもの・ことを指す。炊事,掃除,洗濯などだ。対価を払うことで自分の代わりにプロに行なってもらうことができる。

看護(生活行動援助)は,1)その人の代わりにできない行動(呼吸,食事,排泄,移動,清潔など)を,2)それまでその人が行なってきたように支援するプロの仕事だ。

営業事務はどこか家事援助に似ている。編集が看護に似ているというのはいろいろと読み替えが必要であるだろうけれど。火田七瀬よろしく家事援助でその家に入るところから,家族の状況が見えてしまうことがあるように(まあ小説のなかでの話だが),営業事務を通して会社の状況が見えてしまうこともあるのだろう。知り合いの会社に入った経理のパートがなかなか続かないのは,数字をとおして,そのあたりを感じてしまうからかもしれない。

編集を通して,会社の状況をみることは,実のところむずかしい。30年近くこの仕事を続けてきて,今さらにそんなことを感じる数日だ。

5/24

パートに入ってもらう方が今日から出社。簡単なオリエンテーションをし,まずはルーティンワークに入ってもらう。引き継ぎのマニュアルをもとにこれで当面,切り抜けられるだろうか。18時半過ぎに退社。池袋で閉店間際の食料品売り場に行き,夕飯用にお弁当を調達。帰宅し,夕飯をとる。テレビを観ながらサイトの調整。

島田一男の『犯罪列島』を読み終えた。鉄道公安官シリーズ晩年だろうか。構成は他の作品に近いものがあったような記憶。というか,この手の構成で長編を多作したのだろう。トリックに眼目を置かない推理小説を書き続けられたのは,もしかすると初期にハードボイルドの作風を取り入れたためかもしれない。

週末

土曜日は午前中,マンションの理事会。想定していたよりも波風がたたずに終わる。もう少し荒れるかと思ったが,まだまだおだやか。それでも疲れてしまい,少し横になる。昼過ぎから家内と外出。新事務所に荷物も持っていき,カートを置いたままにして新井薬師前まで。昼食をとっている間,雨が降る。あいロードにワインと食材などを揃えた店がオープンしていた。覘いてみると,とてもおもしろい品揃えだけれど,このあたりの住民には高めではないだろうか。まわりに特色のある店が揃いはしているので,それなりにうまくいくかもしれない。

中野ブロードウェイからサンロードを歩き,折り返す。中野ブロードウェイの4階に行き,文庫を数冊購入。新しいお店に戻り,夕飯を買って駅まで。中井で家内が買い物をする間に事務所に戻りカートをもってくる。帰宅。

日曜日は本をカートに積んで新事務所まで。本を降ろし茗荷谷に。カートを置いたまま,丸の内の起業関係のところまで。26日に予約を入れて,しばらく資料の整理。茗荷谷に戻り,机のなかの私物をカートに積んで帰る。新事務所に置いて帰宅。疲れてしまい1時間ほど眠る。夕飯,Windows10のたまったアップデートをかけて,NASの整理など。0時過ぎに眠る。

Solo

久米君が午前中までで退社。昼休みに郵送された伝票を当たり前のように渡す上長は,まあ,だから退職するのだな。微細にわたり準備してもらったマニュアルを確認し,営業・事務の机まわりを掃除しながらセッティングしなおす。

ほぼ引き継ぎなしに受けざるを得なかった9年前までの経理関係の残滓が手つかずであちこちに埋もれている。よほど頭にきたのだろうなとその伝票類を見ながら木霊が届く。

無理して編集の作業をすすめることなく,引き継ぎをチェックし19時過ぎに退社。帰宅後,家内とテレビを観ながら夕飯。片づけをしていると娘が帰ってきた。申し込んでいた赤い公園のロングTシャツが届いていた。コンサートまであと1週間。とりあえずココアアプリをインストール。

雨で塩垂れた文庫本の『ドアを開いて彼女の中へ』を途中から読み,サバの話になったあたりで,あれ? と思った。1979年に連載「ヨコスカ調書」第4回までを置き土産に,パンナムで世界一周旅行に出かけ,ニューヨークに住む予定が潰瘍をこじらせ帰国となった顛末は,いくつかのエッセイで読んだ。そんなふうに経過をつなげて理解した。ただ,この旅行,ずっと矢作俊彦ひとりで出かけたとばかり思い込んでいた。サバのエッセイを読み,このとき3人で出かけた事実が先の経過にようやく上書きされた。これまで幾度となく読み返していたにもかかわらず,へぇ,そうだったのか,という按配だ。

理解力に乏しいからではあるものの,こういうことがあるから,本は読み返すことだと思った。こういうことって,とくに生産性があるわけではないけれど。

事務

編集者には二通りいる。片づけ上手な奴とまったく片づけられない奴だ。と名無しの探偵が言ったかどうか定かではない。私はといえば,後者のまま30年以上過ごしてきた。あまり不便を感じることなく。

今後のこともあるからと,この1か月,週のうち数時間を営業事務に関するレクチャーで費やしている。30年以上経ても,本や雑誌の流通と,それに伴うデータベースの管理,書類の保管と発送について,ほんの一部にかかわっただけで済んだ。済んだのはもちろん,そのことを専門にして仕事をする人がいるからだ。

営業事務の引き継ぎをうけながら,編集の引き継ぎはこのようにはいかないな,と思うことがしばしばあった。というのも,進行中の出来事は幾層もの込み入った経過で結びついていることが少なくない。結局,企画に携わる一人ひとりについてレクチャーすることが本来,引き継ぎすべき要諦のはずだ。

現実にはしかし,これまで行なった数度の引き継ぎの局面で,経過はほとんどおざなりだ。編集者の仕事は,もう一歩を踏み出すことが優先される。踏み出すことができれば,経緯はあまり意味をもたない。踏み出すために必要な経緯は,人が替わればリセットされるようなものだ。

営業と経理を積み重ねたかのような営業事務の仕事をようやく理解しはじめると,一日,一週間,一か月,一年とまるで小学校の頃,図工か理科でつくったクランクのようだ。理にかなっている。車輪をまわし,届いたものをつなげば,基本的な仕事は顔が変わっても進むかのようだ。ばくちのような編集の仕事とは明らかに違う。

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