3/18

春。午後から打ち合わせ一件を済ませ,一度家に戻る。STORESの注文を梱包して郵便局まで持っていく。ついでに不在通知便(というのか)を受け取る。地下鉄からJR経由で吉祥寺まで。「空と虹と古本市」,Rainbow Booksさんから譲り受けたフォトモ本,ついでに『宇宙鉄人キョーダイン』を購入。日高屋で休憩して中野経由で帰宅。疲れてしまい1時間ほど眠る。夕飯をとり,MacBookAirのOSアップデート。今回もESETを一度アンインストールして。23日にBig Sur対応版が出るというのだけれど面倒くさい。

昼過ぎ,5月の赤い公園のチケット2枚当選の連絡がある。中野サンプラザで間引きしての席確保らしく,取りづらかったようだ。家内と娘と3人で行くとあと一枚足りない。一般も申し込まなければ。

昨日のエントリの後,徹とメッセンジャーでやりとりした。10数年前,徹が昔の記憶をほとんど覚えていないことがわかった。奥さんからは「思い出がない男」と呼ばれているらしい。ノンフィクション映画好きなのは,他人の想い出を代替にしているのだろう,と。そんなものだろうか。昔からノンフィクション好きだった気がする。まだ,想い出があった頃の話。

Rainbow Booksさんは同世代なので,好きな本がよく被り,本を交換したりする。唯一,違うのが手塚治虫への関心の度合いくらいだ。石森章太郎のマンガは好きでも手塚治虫のマンガをリアルタイムで面白いと思うようになったのは1980年代半ばくらいになってからのことだ。1970年代に「ビッグコミック」で描き継がれた長編あたりをようやく読むようになったということだけれど。

徹や昌己は,水木しげるに諸星大二郎,つげ義春,「ガロ」系マンガから入って,トキワ荘界隈では藤子不二雄の「ヒットラー叔父さん」あたりを読むくらい。メインストリームを妙な角度で避けながら80年代を折り返した。二人にも『銀河鉄道999』や『ドカベン』を読んでいた時期があったことを少しあとになってから知った。手塚治虫のマンガといえば『ブラックジャック』の「無頭児」の回のことくらいしか話題にのぼらない。

『アドルフに告ぐ』で手塚治虫のマンガに嵌ったのだ。とくに徹はそのあたりから手塚マンガを読むようになった。しりあがり寿がすでに『火の鳥』をパロディーにしていたので,もはやどちらを先に読んだのか混沌としてしまうような時期だった。思い返すと,声高に手塚治虫ファンと名乗る知人,友人にその頃まで会ったことがなかった。高校時代に美術部で一緒だった聡史は「手塚のヒューマニズム」と括っていたはずだし,シゲさんから正面切って手塚治虫のマンガの面白さを話された記憶はない。職場の上司は私より6歳年上だったので,マンガといえば手塚治虫だった。私が石森章太郎ファンだというと,「手塚治虫は背景まで自分で描くけれど,石森章太郎はじめ他のマンガ家はアシスタントまかせだからダメ」だと一笑に付された。まあ,手塚治虫だって背景はアシスタントが描いていただろうに。(5年半くらい前に似たようなことを書いていた)

同世代で,だからRainbow Booksさんは初めて,正面切って手塚治虫ファンを名乗る知人なのだ。

加藤

徹と精神科病棟で夜勤のアルバイトをしていた当時のこと。半開放病院の開放病棟のカウンター番がおもな仕事だったので,17時に入ってから21時までの4時間,9時半に明けるまでの数時間,カウンターで患者さんの話を聞き,頼まれごとに動いていた。

そのフロアから外に出してはあぶない状態の患者さんに目配りし,出そうなときは話を持ちかけたり,ときには看護師さんと一緒に,とにかくフロアから出さないよう働きかけた。

なかにはわれわれと同年代の患者さんもいて,学校で話す話題のなかから,少し特殊かもしれないけれど,それでも共有できそうなものをとおしてやりとりすることがあった。彼の名前は覚えていない。痩身にいつも白いワイシャツを着て,神経質そうにフロアをうろつく。カウンセリングはここを紹介してくれた助教授が担当していたようで,数回,彼のことを聞いた記憶がある。ただ,疾患や症状がどのようなものだったのかほとんど覚えていない。

徹は新館2階,私は新館3階でアルバイトをしていて,彼が2階から3階に移ってきた。患者さんは長期にわたる入院が少なくないため,ベッドや病室,ときには病棟を移動した。一見,まじめというか神経質そうな印象だ。徹に,彼が3階に移ってきたことを伝えると,「彼はああ見えて失礼なこと平気でいうからな。気にしないことだ」と一言。幸い,私は何か気になるようなことを言われた記憶はない。ただ3階になじまないのか,しばしば2階に行っていたようだ。

徹は彼からいろいろ言われたらしい。あるとき彼に「3階なんだから,3階のカウンターに行ってください」とやわらかく伝えた。途端,慣れない体で,徹をもちあげるようなことをいう。てきとうにあしらわざるを得なかったときに,ふと,「学生になるとみんな加藤諦三を読むんですよね。僕,今読んでいるんです」と言った言葉にひっかかってしまう。「加藤諦三なんて読まないよ」と切り返したくなる思いを押しとどめると,笑ってしまいそうになる。

どうしたわけで加藤諦三なのだろう。その話を聞きながら,二人でしばらく悩んだ。加藤諦三の本はいまだ一冊どころか一行も読んだことがない。

道後

仕事の関係で,国内の県庁所在地にはほとんど足を踏み入れた。ただ,空港や駅と学会会場,ビジネスホテルと近場の食堂くらいを行き来するだけなので,踏み入れた割には土地勘はまったくおぼつかない。

松山で学会があったときのこと。その期間,学会が重なったため急遽,営業サポートとして出かけた。以前,取材で入ったときはそれなりに仕事をした記憶はあるものの,やはり土地勘はついていなかった。市電に乗って,古本屋を探しに行った気がするのだけれど,以前来たときだっただろうか。

取材と営業は別々の行動をとることが少なくない。ただそのときは,学会後にお世話になっている先生の講演があったので出張二日目,取材者をともなって会場に顔を出した。道後温泉に行く途中,200名も入れば満員になる会館のような場所だった気がする。

会場に向かう途中,取材の様子を聞いてみると,どうも調子がおかしい。なんでも初日,ホテルから学会場まで使ったタクシーの運転手がくせの悪い人だったようで,付きまとわれている気がする,というか実際に待ち伏せされてたのだと。

講演が終わったら散会にしようと思っていたものの,まずそうな按配だった。とりあえずタクシーをつかまえて夕飯によい店を紹介してもらった。寿司屋に行った気がする。松山に入ってからの様子を聞き,ホテルの施錠(当然だけれども),出入りのとき,ひとりにならないよう紛れ込み方など,あたりまえの話をしたのだっただろうか。おかげで,うまかったはずの寿司の記憶はほとんどない。

翌日,道後温泉に寄って私は新幹線に乗り継ぎ東京に戻ったが,取材者はそれでも週末,松山を観光するという。大丈夫か。と思っても,そのあたりの危機感はそれぞれだろうから,踏み込まずに聞き流した。週明けに会社で会った取材者はその後,大事に至らず,松山を観光したそうだ。そ奴は出張先で私にくらべ遥かに多くの土地勘を得たに違いない。

飛行機ではなく,新幹線で帰京する時間がどれほど長いかというと,逢坂剛の小説を車中で読み終えてしまうほどの長さなのだ。車中の時間を逢坂剛の小説何冊分かと換算してしまう癖はこのときについたのだった。

Pulp

1970年代の「ミステリ・マガジン」を捲ると,しばしば「パルプ・マガジンの時代」はじめ,1930年代あたりのアメリカでウェストレイクがいうところのブルーカラー向け雑誌の紹介にしばしば遭遇した。SFやアニメーションなどサブカルチャー全般の歴史について,意図的に取り上げていたように思う。

そのなかでホレス・マッコイが紹介されたり,時代は異なるもののバーセルミやヴォネガットの短篇が載ったりしたのを目にした。80年代初めの頃だったので,バーセルミは現代文学者であり,ヴォネガットはメインストリームの作家として認識していた。雑誌刊行時の感触は,だから想像できない。ブコウスキーだけは目にした記憶がない。あれは特殊な紹介のされかただった気がする。

田中小実昌訳のカーター・ブラウンが面白かった(全体の印象はマーガレット・ミラーっぽい。ただ乾いた感じひとつで読後の印象は大きく変わる)ので,ウェストレイクを引っ張り出す。

3/14

そこそこ暖かいものの風が強く,冷たい。午後から仕事。企画の資料をプリントアウトし,そのあと単行本の索引マーキング。18時過ぎに終え,帰りに茗荷谷駅近くのチョコレート屋に寄る。なんだか勢いよく混んでいる。チョコレートケーキを購入。池袋で夕飯用にお弁当を調達して帰宅。夕食後,SynologyのNASのOS,ベータ版にアップデートしてみた。

WordPressは設定がうまくいかず,アクセスしづらくなっているので,作り直してよいかと思い,データベースはエクスポートせずにフォルダごとコピーしてしまう。

30分くらいでアップデートは終わった。明日,NASの上位機種がそこそこ安くセールされるそうで,数日前は仕事用に買ってしまおうかと思っていたものの,まあ,今買わなくてもよいかと考え直す。最悪,いま使っているNASを仕事用に使えばよい。ただ,メモリが512メガしか積んでおらず,使うとすれば増設したいが,これメモリの増設できるのだろうか。

ベータ版はSynologyルーターの管理画面っぽく洒落た感じになった。

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