古本


読み終えた本をどうするか,という話題(のようなもの)がネットを巡っている。要は「捨てる」と「古書店に売る」という選択肢のどちらに進むかなのだけれど,「本棚に入れる」「必要な箇所を切り取り,残りは捨てる」といった選択肢さえないなかで,両者の意見だけを読んでも,どちらもピンとこない。

著者擁護の点からは「捨てる」派が優勢だ。読みたくなったら再び買うというのだけれど,そうした行動に,あまり現実感を覚えないのはなぜだろう。

私にとっての読書の到達点(があるのならだけれど)は,好きな本を一字一句覚え,また全ページの版面を画像で記憶し,読んでいる最中の五感がいつでも再現できるように記憶を保つことだ。そうしたくなる本で出会ったならば当然,物としての「本」を手放すことはない。一冊当たり多くて数百円の印税の対価として,一人の読者にかなり長期にわたる愉しみを提供するのだから,著者にとってはたまったものじゃないだろう。

ただ,それは本に定価を付ける上での宿命のようなものだ。

矢作俊彦が安彦良和との対談で語っているとおり,本の定価の1/3程度は印刷・製本・用紙代だ。くだらない内容の1,000ページの本が,だから私にとって欠かせない100ページの文庫本よりも遥かに高額の商品として書店に並ぶ。読者にとっての価値と定価が比例することなどほとんどない。価値はただ,売上冊数として評価されるだけだ。だから顕在化するのは商品としての本の価値でしかない。

アメリカではペーパーバックをどれだけもっているかで小説家の価値が計られることがあるという。イギリスでも似たようなものだと感じるエビデンスには,ザ・ビートルズの“Paperback Writer”の“So I want to be a paperback writer”のくだりを示せば十分かもしれない。ここでの価値は,いかに多くの読者に読まれたか,だ。それはポップミュージックの価値と似ている。

しかし,一方は3分間の愉しみであり,もう一方は杓子定規に考えても2時間程度かけた愉しみだ。一方は数十回繰り返して聴くこともあるだろうけれど,もう一方は下手したならば一度読まれて放られてしまう。似てはいるけれど,愉しみかたはまったく違う。

矢作は先の対談で,電子書籍時代になってようやく,小説家は作品の価値に定価がつく世界で勝負することになると想像している。人気のある小説家の作品は「高くても」売れる。人気のない小説家の作品は「安くしなければ」売れない。元がとれないので,あげくは読んでいる途中で広告のバナーが出てくるような仕様にしなければならなくなるかもしれない,と。

同じ本を買う回数を増やすなどという話題を目にした記憶はない。今回,そのことについては驚いた。もちろん,ただ驚いただけだ。ほぼ唯一の例外として,平井和正が数多くしたためた「あとがき」の初めの頃(初期の作品の「あとがき」で),自分の本を,面白く感じ,くたくたになるまで何度も読み返して,もう一冊買ってほしいから手軽な文庫・新書で刊行すると表明したのは,作家と読者の幸福な出会いを前提としたなかでのものだったのだと思う。

ベストセラー作家の本を原価率5%程度の本体価格設定で販売したとする。仮に1万円としよう。日本中に彼の新作を待ちわびる読者がいる。前の本は1,500円で100万部を突破した。新作はその1/6の売り上げで同じだけの利益を得ることができる。では,1万円でどれだけの読者が彼の新作を購入するだろうか。1万円の本を読み終えてから捨て,読み返したくなったので1万円出した同じ本を買うだろうか。そうした思考実験なしに,ほぼ制作費と天秤ばかりして本体価格がつけられた本を前に,捨てるか売るかの二者選択にあれこれ文句を言っても始まらない気がする。

昨年末,伽鹿舎から再刊された佐藤亜紀の『戦争の法』を,書店に頼んで入手した。新潮社版のハードカバーも手元にあるし,書棚を探せば文庫本も出てくるはずだ。しかしそれは,旧版を手放したから手に入れたのではなく,新しく出たから買ったのだ。それでいいんじゃないかと思う。初手から「捨てる」か「古書店に売るか」など,考えることがなかったので,この話題,いまだにピンとこないのだ。

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