がさつ

台風が近づいているという。とにかく町場の湿度をなんとかしてもらいたい。

朝,会社が入るビルの共用部分に据えられた蛍光灯カバーが落下。砕け散ったガラスを久米君が掃き集めている。とりあえず管理会社に連絡し,対応を依頼する。午後になっていつの間にかガラスの破片は片づけられていた。18時過ぎに会社を出て,娘と駅前で待ち合わせて夕飯をとる。家内は以前の会社の同僚と久しぶりに会うという。和食がよいとのことで,一度だけ入った記憶がある「なか井」にした。

「なか井」は割烹料理店だけれど,そこまで高くはない。にもかかわらず,見ていてとても楽しくなってくる料理の手さばきと,おいしさだ。娘は天ぷらと刺身の定食。私はさばいたばかりだというので,うな重を奢った。もちろん自分に。

「さつまいもはこれくらい厚く切らないと甘さが出てこない」とか「生わさびは最初,口に含むとふわっと甘さが漂ってから辛味がくる」などなど,せっかく食事に来ているのだから,カウンターで料理長と食べ物の話をするのはあたりまえなのかもしれない。ただ,そういう機会はあまり多くないのが実際のところだ。

外に出ると非道い雨。台風が近づいているようだ。

今朝は,直行で大久保へ行き,打ち合わせ。11時過ぎに終わる。朝食をとらずに出てきてしまったので,昼食と兼ねて済ませてしまうことにする。以前,裏通りに北海道料理店があったことを思い出し,歩いていくと,居抜きで韓国料理店になっていた。店主ひとりで,まだ早い時間なので客は私だけだ。「ほんと暑いね」汗を拭きながらカウンターの向こうに立っている。ビビンバを注文した。

4年前に店を開き,夜は賑わっている様子。ニュースで死刑囚が群馬県の山中に死体を埋めたという供述をしたと流れると,「埋めたんだって」とぼそり。「キムチ食べる?」と尋ねられたので,いただくことにすると,ニンニクの芽を醤油と唐辛子で漬け込んだものと一緒に出してくれた。ビビンバに加え,ケチャップとマヨネーズを別々にかけたサラダにワンタンと豆腐,刻んだレタスの入ったスープ。豪華な昼食になった。

「私も先に食べてしまおう」といいながら,カウンターの向こうで最初は立ったまま食事をとる。話しているうちに折りたたみの椅子を広げ,本式に食べ始めた。

お勘定を払おうとすると,店主の腕が何かにぶつかって,ガラスが割れるような音がした。それでも慌てずに少しだけ片づける。私はおつりと店の名刺をいただいた。

がさつな店主が営む韓国料理店は居心地がよい。今月,大久保で飲み会があるので,この店にくることにして,とりあえず名前を伝えた。

サード・プレイス

蒸す日,蒸す夜続き,暑さまで加わって,ひたすら体力が消耗していく一日。

恐ろしく高い不快指数,猛暑のなか,午後は打ち合わせに出る。往復1時間半程度でぐったりしてしまう。20時過ぎに帰る。日が落ちてもまとわりついてくるような空気だ。

マイク・モラスキー『日本の居酒屋文化 赤提灯の魅力を探る』(光文社新書)をこの前,飯田橋のブックオフで買い,ざっと一度読んだ。読み返しながら,自分にとってのサード・スペースはどこだろうと考えた。

学生時代,校内で友人を探すよりも,駅の向かいに建つビル2階にあったファミレスをまず覗いた。昼時であれば喫茶談話室に行ってみる。または書店の雑誌,マンガコーナーで立ち読みする姿をざっと追う。学年が上になるにつけ,友人個々のテリトリーが広がり,結局,校内で見つけざるを得ない状況に陥った。当時,携帯はないし,私に至っては電話さえ引いていなかった。場所であたりをつけ,友人を探すしかなかったのだ。

仕事をするようになってから,結局,行きつけの酒場をつくることはなかった。酒を飲むより,CDや本・雑誌,ライブや展覧会,映画に費やすほうが圧倒的にプライオリティが高かった。

家庭をもってから,家内や娘と一緒に懇意になった食堂は何軒かある。それでも,同じくそこに通う客まで含めて親しくなったかとなると,そうともいえない。家の隣にあるパンと喫茶店を兼ねたスペースは,実はサード・プレイスとして入っている気もするが,あくまでも他の店と比べてという意味であって,それ以上のものではあるまい。

高田馬場の夢屋,中井のサワディー,上落合にあったPippi,新井薬師の五香彩館あたりは,店主とは親しくなった。特に五香菜館のおじさんとおばさんは,上高田でほぼ唯一,昔,私がそこに暮らしていたことを記憶してくれている方だ。

しかし,どこもサード・スペースではない。というよりも,どこか通りすがりの居心地のよさを選んでしまうのだろうなと思う。

週末

土曜日は午前中に,ふたたび本棚が届いたので,娘と一緒に組み立てる。今度は娘の本を並べたが,こちらも本棚1本増えたくらいで収まりきらないほどの本が依然控えている。午後にかけて,本棚が並んだ廊下を片づけていると眠たくなってきた。1時間くらい横になる。娘に,近くのパン屋で昼食を買ってきてもらい昼を済ませる。本を片づけていると,読みたい本が出てくる。自分の本にもかかわらず,というか自分の本だから仕方ない。

外出せずに一日を終えた。

日曜日は昼から取材。選挙を済ませて高田馬場に行くと,山手線内回りが動いていない。外回りで池袋まで反対方向に戻り,埼京線に乗り換えて恵比寿に。17時少し前に終わり,恵比寿の餃子屋でチューハイを飲みながら軽く遅めの昼食をとる。娘,家内と待ち合わせて駅ビルで買い物。そのまま東口を少し歩いたところにあるうどん居酒屋で夕飯。

週末は湿気が非道くて難儀した。

忙しくなってから,家の掃除をほとんどまかせてしまうのだけれど,家庭をもってからはもちろん,1人暮らしのときにもときどき思い出したように週末,掃除で終わる日があった。コツコツを掃除するわけではないので,きれいなのは一時。

7月の週末は掃除に勤しむことにする。とはいえ,2LDKすべてに侵食する本をどうしようかと悩む。みちくさ市に並べるのはもとより,「NEW パンチザウルス」しかアップしていないネット古書店のラインナップを広げようかと考える。

車いすと水上勉

買って帰りたいものがあった。18時に仕事を終えようとしたタイミングで,締切を大幅に過ぎた原稿が届く。念のため添付ファイルを開き,ざっと目を通したところ,進行担当と印刷所の判断で手を入れて進められる状態からは程遠い内容。何本か中見出しを追加しながら,ざっと原稿整理して,進行担当者に渡す。10,000字ほどの手入れに1時間半ほどかかった。買い物はあきらめ,駅前の居酒屋で一杯だけ飲みながら水上勉『死火山系』(光文社文庫)をキリのよいところまで読み,家に帰った。

仕事の関係(直接は使わなかったものの)で買った川上武・山代巴『医療の倫理』(ドメス出版)を少し前に読み直した。本書で取り上げられているフランクルの『夜と霧』,北杜夫『夜と霧の隅で』は読んでいたので発言趣旨は理解できたものの,読んでいない遠藤周作『海と毒薬』,水上勉『くるま椅子の歌』を古本屋で探していた時期がある。

ちょうど映画「沈黙」公開後で,遠藤周作の代表作の多くは100円均一コーナーから姿を消していた。ようやく,そこそこの状態のものを見つけ,この前,『海と毒薬』は読み終えた。以前は水上勉の『くるま椅子の歌』もときどき,100円均一コーナーで目にしたのだけれど,ここしばらく遭遇しない。

そんなことを思ったのは,『死火山系』を読み始めたタイミングで,車いすの話題にぶつかったからだ。

『医療の倫理』のなかで,『くるま椅子の歌』はとても評価されている。作者自身の「困りごと」を土台にしているから,言説は軋むことが少ないのだろう。

四半世紀前に亡くなった上司は,高橋和己とともに水上勉の小説のファンだった。彼は整理部に異動され嫌気がさした新聞記者あがりだったので,社会派推理小説の書き手としての水上勉ファンだったはずだ。

水上勉の小説は,有馬稲子の舞台「越前竹人形」を見た後,原作を読んだのが最初だった。その後,『海の牙』『耳』と数編を読んだくらいで決して熱心な読者ではない。『死火山系』もたまたま古本屋で見つけたから買っただけだ。ただ,歳をとってくると,若い頃,毛嫌いしていた社会派推理小説をときどき読みたくなってくる。結城昌治や三好徹,半村良の小説を読む冊数のほうが圧倒的に多いものの,それでも水上勉の推理小説があると,とりあえず買ってしまおうかと立ち止まる。

システムは困ったりしないので,システムに業務を丸投げしたり,意識的に仕事に向き合っていないならば,その特権的立場に対するものとして向き合う必要があるだろうけれど,困っているもの同士であれば,改善策を模索することはできる。

『くるま椅子の歌』を読んでいないにもかかわらず,水上勉だったらどう考えるだろうかと,誰か考えた人がいるのだろうな,と思った。

困りごと

iPhoneを忘れてきた。とはいえ,何も困らなかった。遠藤周作の『海と毒薬』を読み終えたのは,そのせいかもしれない。

19時過ぎに会社を出る。池袋で『海と毒薬』を読み終えて家に帰る。Amazonから,追加で頼んだ本棚2本が届いていた。夕飯をとり,娘と一緒に本棚を組み立てた。膝上丈,計3本の本棚が並んだ廊下。積み重ねたままの本の山から並べていく。当然,これで収まる量ではない。娘の本も溢れているようなので,また買うことになりそうだ。

Webニュースでみた車いすを使っている人と飛行機への搭乗トラブルについて,TLにあれこれの情報が流れてくる。車いすを使っている人は困り,航空会社の担当者も困った。困りごとなのだから,解決策を探るのが第一だ。善/悪のレッテル貼りで消耗戦に陥るのは,もったいないな。

『海と毒薬』を読み終え,もう一度,川上武と山代巴の対談集を読み返してみようと思う。『沈黙』を読んだときにも感じたのは,遠藤周作は技巧で抱え込んだ世界のなかに問いを立てるということ。でも,それはあまり成功していないのではないかな。もちろん世界を抱え込んでも一向にかまいはしない。ただ,その世界のなかで立てる問いが不釣り合いに感じるのだ。下手をするとゲームと同じレベルで善悪を選択するような思考に嵌り込みかねない。それは遠藤周作が決して望んでいる事態ではないにもかかわらず。

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