華氏451度

朝は直行で広尾に行く。出来上がった本をまずは著者に届ける。共同で編集に携わったフリーの方(本郷界隈の版元をリタイアされた方)と待ち合わせた。著者と1時間ほど話して,昼に会社へと戻る。急遽,明日下版になった本の目次,索引などのデータを作成。確認箇所をメールで送ったりしていると20時を過ぎてしまった。家でプリンターの設定を確認。やはり,セキュリティソフトのガードレベルが上がったためのようで,例外を加えていくが,あまり調子がよくない。

会社の行き帰りに読んでいるのはレイ・ブラッドベリの『華氏451度』。数年前,伊野尾書店で買ったのをそのままにしていたのだ。

ブラッドベリは中学生の頃,『何かが道をやってくる』をきっかけに数冊読んだ。狭義のSF物には手を出さず,幻想小説っぽいものを読んだものの,すぐにマッケンやラブクラフトの方が本式のように思い,そのままになっていた。

久しぶりに『たんぽぽのお酒』を捲っていて,初期カポーティ風だったことを思い出し,ただ,いまさら『何かが道をやってくる』を読み返すのも躊躇われ,書店の棚にあった『華氏451度』を読もうと思った。そのときは数ページ捲っただけで,ああ萩尾望都や竹宮恵子,何よりも三岸せいこのマンガを読みたくなってしまい,そのままになっていた。

部屋に積まれた本の山から,『楡家の人々』とどちらにしようか少しだけ悩み,考えもなしにこちらを鞄に入れた。今回はそれなりに進んで,今のところ,よくも悪くもアメリカの小説だな,と感じるばかり。

ぐにゃり東京

雨が降りそうな天気にもかかわらず,降りそうなままで一日が終わる。

19時まで仕事。対談原稿を起こす。Okoshiyasu2を使ってみたところ,無茶苦茶よい。これをもう少し早くダウンロードしておけばよかった。帰りに池袋で少し休み,『ぐにゃり東京』を読み終えた。20時過ぎに家に戻る。無線LANで繋いでいるプリンタがうまく動かない。再設定しなおしたが,どうもウイルスソフトの関係のようだ。

『ぐにゃり東京』は「GRAPHICATION」連載時に途中から読んでいた。しかし,実のところあまり印象に残っていない。池内了はじめ,他に楽しみな連載がいくつかあったためなのか,理由はよくわからないのだけれど。

で,まとまって読んで初めて,こういう連載だったのかと,ようやく認識した。仕事でたまにお世話になるフリーの人に似て,というかそのもので,ものの見方が面白いと思う一方,どうも苦手な雰囲気を感じてしまう。対象論が先だってしまうところなのだろうか。

昌己と飲んでいて,本書の話になったことがある。平井正と間違えていたことを,どこかに書いたかもしれない。「どこかって会っていてもおかしくないくらい,行動範囲が被るんだよな」。水道橋に会社があるのだから,昼飯に入った店に平井玄がいてももちろんおかしくない。

週末

土曜日は昨夜の荷物を抱えて会社に行く。雨。このところ,鞄のなかには買ったままで読み終えていなかった平井玄『ぐにゃり東京』が入っている。帰りに高田馬場で少し飲んでから帰る。芳林堂書店に久しぶりに入ったところ,本の冊数がかなり少なくなっていて,まさかと思う。レイアウトを変えるためのようだけれど,この調子で続くのだろうか。

日曜日は午後から家で少し仕事。サイトのlogファイルのタグを変える作業は,やりかたが確定したので,1月分数十分で終えられるようになった。とはいえ10年分くらいあるのだから,全部終えるのに夏くらいまでかかりそうだ。夕方から吉祥寺に。家内,娘と夕飯。公園口駅近くに移転したSOPRAに入る。夜のメニューは前菜,パスタ,メイン合わせて7種類くらい。メニューにないものも注文すればつくってくれる。もしかしたら,多くのレストランはこのやりかたで十分,店をまわせるのではないかと思った。サラダを頼み,魚中心にデザートまで食べてお腹いっぱい。

帰りにバサラブックスの300円均一箱に中井英夫の『悪夢の骨牌』『人外境通信』,横溝正史『鬼火』,河野典生『カトマンズ・イエティ・ハウス』があったので買ってしまう。300円なんて値付けされたらしょうがない。中井英夫の2冊はページを開いた痕跡さえない美品。箱は経年劣化だけれど。

凍結していたiTunesストアのアカウントを解除したり,SNSに一時,矢野顕子の「いいこ いいこ」をアップするためにあれこれ手をかけたりしていたら夕方になってしまった。まあ,家でそんなことする時間がとれたのは久しぶりだから,それなりに楽しい。

『ぐにゃり東京』を読みながら,数年前のゴールデンウィークの非道い進行を思い出す。フリーの校正者,DTPオペレータの独特の感じ,どこか山っ気があって,まるでクイズを解くかのように仕事を進めようとする感じが伝わる。プロなんだけれど,なぜかあまりプロっぽくないのだ。

HTML

気圧のせいか,午前中は頭痛が非道く休む。昼過ぎから仕事。夕方に飯田橋で著者校正を受け取り,そのまま西馬込まで行く。数年前,執筆いただいた著者のお通夜。初めて西馬込に降り,坂を登ったり降りたりしながらの数分でお寺に着いた。以前の上司と精進落としを呼ばれていると,知り合いの著者がやってきた。3人で帰ることになった。来るときに川崎がおそろしい混雑ぶりだったと著者。西馬込まで歩き,五反田経由で帰ってきた。

数日前のことだというのにきっかけは何だったのだろう。旧サイトのアーカイブデータに手を加え始めた。

そう,昭和60年代後半の記憶を整理していたときだった。やけに行間が詰まっていて読みづらいなと思った。とりあえずcssを加えて行間を調整し始めたところ,書体とか1行の文字数とか,他の箇所のデータも修正したくなってきた。

一月分に小一時間かかる。まだ5か月分を終えただけだ。WordPressに移してしまってもよいのだけれど,何だか当時の感じは残しておきたいので,とりあえずコツコツと更新することにした。

S60

幻の昭和60年代後半もひとくくりにしてみると,5年遅れ(早い)「昭和」というdecadeは矢作俊彦の指摘を俟つまでもなく使い勝手がよい。

徹がペヤングにイカの燻製を入れて食べる発見をしたのは昭和66年で,ただ,それは徹が嬉々として説明するのにくらべ,遥かに美味いものではなかった。先のポストにリンクを貼ったとおり,徹が発見したペヤングの美味い食べ方を一番知りたがったのは昌己だった。しかし一口食べた途端,「これ,くどくねぇか」。結局,すべて食べた奴は誰もいなかったような気がする。

昭和67年のある日,アパートでウィルキンソンのジンジャエールのタンカレー割り(この場合,主客はこうするのが適当)を飲みながら,昌己と一緒に曲をつくっていると尾崎豊が死んだというニュースが流れた。昌己がギター,私はカシオトーンのマレットの音色でテロテロと弾いたその曲は,まったく即物的なものだった。聞き直して昌己がボソリと「尾崎豊が死んだことは曲にまったく影響してないな」と言ったことを覚えている。

昭和68年にはニコラス・ケイジの代表作「ハネムーン・イン・ベガス」が公開された。それしかないのか。

昭和69年,私は家庭をもった。

来なかった昭和70年には阪神淡路大震災とオウム真理教による事件が起こった。その後,いろいろ。

こうやって記してみると,何だか昭和60年代まではあったような気になってくるのが不思議だ。

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