紛失

昼食をスワンベーカリーでとり,そのまま田無経由で,義父の家を片づけるために移動する。

搬出の人が作業中で,すでにかなり片づいていた。ただ,家内姉妹がそれぞれ携えるものの量がまだかなりある。荷台に段ボール箱1つ載せ,あとはあさってにしようと思い,他の荷をまとめておく。作業中の人のために缶コーヒーを自販機まで買いに行った。16時過ぎに出て,途中で家内とお茶をする。地元のキッチンで夕飯をお弁当にしてもらう。少し時間がかかるというので,一度家に戻り,一日背負っていたリュックをもってキッチンに。代金を払おうとするが,リュックのなかに財布が見当たらない。再び家に戻り,とりあえず家内の財布をもってお弁当を受け取りに行く。

義父のところに忘れてきたようだ。カートを引っ張り,この日,二回目の移動。すでに19時を過ぎている。搬出の人はブレーカーを落として出て行ったようで,もちろん,事故のリスクもあるからそうするのが定石だ。iPhoneで家のなかを照らしながら探すもののらちがあかない。ブレーカーがありそうなあたりを探し,どうにかあげる。明るくなっても,結局,財布は見当たらない。しかたがないので,カートに荷物を一箱積んで家に戻る。

翌朝,午前中にカード会社,銀行に使用の停止を連絡。交番に紛失届を出す。西武線は相変わらず,紛失物の対応に横柄だ。

数年に一回,こんなことがあるような気がする。

商法

20時まで渋谷で会議があり,高田馬場で家内,娘と待ち合わせて夕飯。コートが必要ないくらいに暖かい夜。

今年になって家内が見つけたパート先は,アクセサリーと服飾ブティックを合わせて3軒経営している。家内はアクセサリー店の配属になった。仕事は雑務全般と若干の営業補助。客の来店時に応対することもあるようだが,常連客が多いため,プライマリで対応するスタッフは決まっている。

勤務時間は日中3時間ほど。週2,3回だから給与はたかが知れている。経営陣には「勤務時間を長くする」とか「出勤回数を多くする」とかいう考えはないようで,一日3時間程度を数人でローテーションしているのだという。

パートをはじめて1,2回目のとき,店長に「店で買ったアクセサリーをつけて,お客様に尋ねられたときの参考にして」と促された。家内はアパレルに勤務経験がある。念のため,面接のときにノルマの有無を確認したものの,それはないという返事だった。高価なアクセサリーばかり並ぶ店だ。少しは安く済むだろうと考え,手持ちのサンゴのリフォームを頼むことにした。20万円を超える見積もりが示された。オリジナルのデザインだし宝石もあしらわれている。それにしても,いったい何か月働けば元をとれるのだろうかと話した記憶がある。

数か月が経った。服飾品は手ごろなものも置いてあるため,この間,数回購入したようだけれど,それ以外,買うことはしなかった。ところが先日のことだ。開店記念のパーティが開かれ,そこでスタッフに「30%割引の券」が配られた。それを使って店の商品を買えということなのだろう。参集したスタッフの数はかなりにのぼった。3店のパートに雇う人数としてはふつう考えられないほどだ。

次の出勤日。30%割引券を使ったか問われた家内が「使っていない」と答えると,さらに次回の出勤した際に「今日はお客様がいらっしゃらないから,お客様になったつもりで選んでちょうだい」とひとこと。いや,実際,お客様なんだが,そんな状況。

とりあえず安いものを2,3選び,購入は家で相談してからということにした。

という話を聞き,そんな言葉を聞いたことはないものの,これは「店員商法」なのだなと確信した。多かれ少なかれこういうことをせざるを得ない職場はあるだろう。しかし,この店がパートを雇う第一の目的は「商品の購入」にあることは明らかだ。短い時間でパートを回せば,パートの人数は増え,パートがトータルで購入する金額は上がる。まあ,あほらしいことを思いつくものだ。

結局,その後退職することにしたものの,経営者は家内の退職を引き留めることよりも先に,退職を他のパートには言わないでほしいと懇願したそうだ。家内の知らないところで同じように辞めては入れての繰り返しだったのだろう。

オンライン古書店

夜は取引先の方を含め4人で忘年会。茗荷谷の「やまもとや」。おそろしく旨い魚が,さらにおそろしいほど安価で食べられる。驚いた。次回は家族や友人との飲み会に利用させてもらおうと思った。

以前から検討していたオンライン古書店のセッティングをすすめている。古書店とはいっても,手持ちの本を並べるので,冊数はたかが知れている。本の検索から決済まで既存のサービス上に乗ってしまえばよいのに,オリジナルのサイトをつくり,注文・決済だけサービスを使おうとしているので,一冊用のページをつくるのに二度手間がかかってしまう。注文・決済ができない本サイトと,それらができるサービスのサイトの内容はほとんど同じだ。本サイトを残そうとしているのは,私の判断ミスにちがいない。

WordPressにはカスタムフィールド機能というのがあって,最初,解説書を読んだときからどんなときに必要なのか理解できなかった。何に使うのかわからないにもかかわらず,作り方だけをたよりに段取りを進めてみたものの,データをどう扱えばよいかもちろん見当がつかなかった。

今回,サイトを立ち上げるにあたって,カスタムフィールドの機能がそれなりに便利そうだったので,取り組んでみた。たぶん,今回のサイト程度のデータ量だと,ベタ打ちでページをつくっても手間はあまり変わらないかもしれない。ただ,後で全体のデザイン(フォントの大きさや色など)を一括して変更したいときには,これは便利だ。

プラグインを入れ,PHPはじかに触れず,データを出力できた。かかった時間は,間に義父の家の整理を挟み,ほぼ半日。それでも画像はページにじかに貼り込むことにした。というかカスタムフィールド経由で画像を反映することができなかったわけだ。

年明けくらいにはオープンしたいのだけれど。

本の廃棄

週末は義父の家の片づけ。おおむねめどがついたものの,廃棄せざるを得ない本がかなりの量になりそうなので,他の古書店に買取打診ができそうなものを避けていく。

筑摩書房「世界ノンフィクション全集」は昔から読みたかったのだけれど,時期を逸して一揃いそのままになっている。収載作品をチェックすると,インゲ・ショル「白バラは散らず」が収められている巻を発見した。北杜夫が「夜と霧の隅で」を執筆する際,当時はこの本と数冊しか参考になるものがなかったと,全集月報に記していた。ネットで検索すると,未來社から単行本として1964年に刊行されているのだけれど,この全集は1961年刊だ。この企画用に翻訳が済み,未來社で単行本になったのだろう(その後,1955年に未來社から翻訳版が刊行されたことを知る)。

梶野さんは当時,フリーの編集者をしていて,翻訳本の原稿整理の依頼を通して知り合いになった。私よりいくつか年上だった。大阪生まれの阪神ファン。小学校時代,関東に転校してきたときは,大阪弁をばかにされたのだと聞いたことがある。

当時の上司が梶野さんを紹介するからというので,神保町の裏にある蕎麦屋で初めて会った。決して酒が強いわけではないのに酒が好きで,酒場で楽しいタイプだった。仕事の打ち合わせと称して,神保町のバァで飲んで以降,新大久保,高田馬場あたりで数回,遅くまで飲んだ。同業の奥さんがいて,二人で白山界隈に暮らしていたはずだ。

梶野さんは,レイモンド・チャンドラーの小説と探検ノンフィクションが好きだった。私より少し上のチャンドラーファンがあるとき,村上春樹の小説に流れたように,梶野さんも村上春樹の小説が好きなようだった。その日何軒目かだったと思う。「26日の月」に移ったときは,かなりできあがっていて,店主のことを「村上春樹の小説に出てきそうだ」などとベタな褒め方をした。早川文庫版の『リンゴォ・キッドの休日』を貸したところ,とても気に入った様子で,「もう少し借りていていいですか。返してしまうと飲む口実がつくれなくなってしまうから」と,まるでテリー・レノックスの台詞のように言われた。

酒場でする探検隊の話は魅惑的だ。「失われた湖」とか「アムンセン探検隊」とか,ある種冒険者の記録の面白さを熱弁する。教科書にさえ登場した物語を読みたくなって,文庫本を何冊か手に入れたこともある。しかし通勤の合間に素面で読む冒険者たちの物語は,それほど胸を熱くさせない。そのままになって,梶野さんとも縁遠くなってしまった。

「白バラは散らず」と「怪盗ヴィドック自伝」が入った二冊を抜き出した。翌日,もう一度棚を眺め,結局この全集はすべて残しておくことにした。

忘年会

寒くて風が強い一日。18時過ぎに事務所を出て,池袋西口の居酒屋一心へと向かう。大学時代の友人たちと忘年会だ。

地元・高知に帰り仕事をしている裕一,音信不通の徹をのぞくと,1980年代の半ばからこちら,日々連れ立ってぷらんぷらんしていた友人とこうやって年数回,飲み会をするようになったのは,数年前からだ。2000年を挟んで前後の10年くらい,パタリと連絡し合うことがなくなったのだけれど,40歳代を折り返したあたりから,あたりまえのように元に戻った。

家庭をもった30歳代は,生活に余裕がほとんどなかった。もちろん,だからどうしたというわけではない。ただ,何が中心だったのか,いつか考えてみてもよいとは思う。ここ数年とは生活の重心がどこか違っていた。

こ奴らと再び飲み始めてから当初の1,2度目は,話が昔ばなしになってしまうのが残念だった。自分の記憶にある友人たちとの会話の感触は,昔ばなしするような性質のものではまったくなかったし,だからといって,無理やり話の方向を捻じ曲げるのも,らしいことではなかった。そのときに感じた違和感を今も思い出すことができる。同じように感じていたのかもしれない。元々,別れ際はサバサバとしたものだったけれど,そのときはスッと火が消えてしまったかのような別れ方だった。

昔ばなしに終始するような間柄ではなかった。それは一時のことで,その後は,以前に比べると話の幅が広がったような感じさえする。変わりはしないけれど,それなりに成長するのだと,妙な感心のしかたをしてしまう。

1980年代の半ば,こ奴らと出会うことがなかったら,その後の自分の生活はあっけないものになっていただろうと,ときどき思う。誇れることなどほとんどないけれど,その出会いは誰に対してのものでもない,私自身にとっての誇りなのだ。20年前,小さなレストランで結婚式をあげたとき,喬史に司会を頼み,徹と昌己,和之,伸浩で打ち込み音源をカラオケに一曲歌ってもらった。15年くらい会っていなかった親戚のおじさんから「ほんとうにいい友だちに恵まれていますね」と言われたことを思い出す。

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