沈黙

遠藤周作の『沈黙』(新潮文庫)を読み終えた。

前日に予約した映画「沈黙」を観に池袋まで出かける。映画館で発券し,時間があったのでブックオフを覗いたが何も買わなかった。階段を下り,中に入ると小さな劇場はほぼ満員。終わってから少し遅い昼食をとる。タカセの通りとは反対側の出入り口に向き合ったビル2階の中華料理店。大塚から歩いて池袋まで帰るときに,ときどき利用した店だ。映画の後半からはじまった頭痛が収まらない。寄り道をせずに家に戻る。薬を飲んで横になる。花粉症の時期がはじまり,薬を飲み始めたところ,その薬に反応してしまうようだ。

遠藤周作の小説をきちんと読んだのは初めてかもしれない。高校時代の友人が遠藤周作や畑正憲のファンで,北杜夫ファンだった私とときどき言い合いになるものだから,そのせいもあり,あえて手に取らなかった。

『沈黙』は,キリスト教の信仰をテーマに据えた小説だけれど,レヴィ・ブリュルよろしく,信じている人はその世界にいるわけで,何かと比べたりすることはできないのだから,信仰しようとする人の小説といえばよいのだろうか。

忘れてしまいそうだから,まず映画のメモを記しておく。

最初,自然の風景が九州というか日本には見えなかった。岸壁の荒涼感はアイルランドのように痩せた土地を思わせ,草いきれで鬱蒼とした緑が登場するとそこはベトナムのように映る。アメリカ人が対峙する自然の特徴的な2つがアイルランドとベトナムなのか。その後,ツイッター経由で,ロケ地が台湾であったことを知った。

全体の構成は,昔,村上春樹がよく口にしたSeek & findものをなぞっている。同じ構成の「地獄の黙示録」を意識しているのかもしれない。Seek & find感は原作よりも映画のほうが強く出ているように思った。Seek & findとは,探していたものは最後に見つかるが,見つけたときにはすでに変質しているという物語の構造で,チャンドラーの『長いお別れ』が典型例にあげられていたはず。それを踏襲した『羊をめぐる冒険』も。

原作では,日本を泥沼にたとえ,正しさ/間違い,正義/悪が相対化されるくだりが一番印象的で,それを含めて多様な読み取りかたができる素材を,映画はSeek & findに集約したようなメリハリのつけかただ。ラスト以外,原作をディフルメした箇所はあまりない。泥沼といえば,ベトナムがイメージされる。

「グッドフェローズ」の頃,鼻についたカメラの長回しが,ほとんど用いられず,カットをきちんと割っていたので,ああ映画を観たという感じがした。

一方で,原作は,匂いをはじめとする五感を言葉で,いやというほど想像させる。映画は五感すべてに働きかけるようなアプローチがとられているわけでない。

野の花ものがたり

劇団民藝の「野の花ものがたり」を見るために紀伊國屋サザンシアターに出かけた。開場まで時間があったので,社長ともども喫茶店を探しに代々木の方に向かっていると,向こうから徳永さんがやってくる。挨拶すると開口一番,「今日,ここでぼくの芝居をやるんですよ」。この時間,サザンシアターの真下で会って,私たちが芝居を見にこなかったのであれば,それは盲亀の浮木のような偶然ですよ。思わず笑ってしまう。このタイミングで,あの一言が出る徳永さんは,やはりすごいな。

「野の花ものがたり」は,鳥取の臨床医で,ターミナルケア・ハンセン病患者が生きてきた様などについて執筆,また講演活動を続ける徳永進さんが有床診療所「野の花診療所」活動の一環として定期的に発行する「野の花通信」を原作にした芝居。

「野の花診療所」を拠点に徳永さんは日常の診療に加え,往診,在宅ターミナルケア,ホスピスでの緩和ケアなどさまざまな活動を続けている。「野の花ものがたり」では,ホスピスでの緩和ケアをテーマに末期患者と家族,かつて家族だった人,家族のような関係,エピソード(というにはそれぞれ背負っている暮らしは代替できない重さがある)を紹介しながら始まる。

ステージ上は,診察用の椅子とテーブル,ベッドが4台,ラウンジ一式。最後に場面が変わる以外は,すべての物語のこのなかで展開される。

ここでは「徳丸先生」として登場する医師のモノローグでそれぞれの場面が繋がれていく。かゆい背中を看護師に掻いてもらうAさんは70歳くらいの男性だ。粘菌の研究のために,体調がよいときは職場に通うBさんは奥さんと二人暮らしの30歳代後半くらいだろうか。Cさんはお地蔵さんをなでるような田舎くらしのおばあちゃん。優柔不断のおじいちゃんは毎日のように見舞いにくる。皆,それぞれの暮らしの延長線上にこの有床診療所での入院を選んだ患者さんだ。共通するかのように見えるのは,誰もが治らない病気(誰にも治せない病気)を抱えていること。病室での場面は,それぞれの家族や看護師とのやりとりで進む。

診療所のボランティアとして,大阪生まれのおばちゃんと,寡黙な青年の様子も描かれる。おばちゃんは野の花を摘み,花瓶にいけて,病室やホールを彩るのが役割。寡黙な青年はおばちゃんの助手兼,さくらの木を使った床をていねいに磨くのが日課だ。

そこに背広姿の(いまどきネクタイピンまで付けた)サラリーマンとその妹がやってくるところから,それぞれの糸が絡み合い,反対に絡み合っていた糸がほぐれていく。

途中に15分の休憩を挟んだ二幕2時間半くらいの芝居で,何度も涙ぐんでしまった。

いまだ愛というものが何なのかよくわからないのだけれど,徳永さんの講演を聞くと,少なくとも死を前にした人と,家族や家族のような人それぞれが思う関係のなかに愛の1つの姿があるように思う。徳永さんの講演をこれまで幾度となく聞いた。そのたびに泣いてしまうのは,それゆえだろう。「野の花ものがたり」を観て,だから同じように何度も涙ぐんでしまった。

劇中で,また終演後に少しだけ行なわれた徳永さんのお話で紹介された詩。(加筆,修正予定)

いささか
あてずっぽうのようだが
死は 無限の半分だと 心得たらどうか。
無限の寸法は
人によって まちまちである。
伸縮自在の無限の半分は
だから
人相応にほどよく 死ぬことを 気楽にさせる――。
「寸法」(天野忠)

沈黙

花粉の影響が強くなってきたので会社帰りにクリニックで薬の処方をもらう。探している本があり,芳林堂書店で探すものの見つからない。悲しいけれどいつものことだ。地下の喫茶店で休憩しながら『沈黙』を読み進める。2/3を越えたあたり。

『戒厳令の夜』は,チリ革命が物語を突き動かすモーターの1つだから,他の革命との違いについて触れられていた。そのくだりが印象に残っている。つまり,倒された側の人は革命を具体化するうえで再び反旗を翻す可能性があるため抹殺しなければならない。チリ革命ではそこが不徹底(?)という趣旨だったと思う。それが後の軍事政権を長引かせた原因の1つだと,まるで切り捨てるかのように仄めかされる。

『沈黙』を読みながら,つぶやきのことを思ったり,上の箇所の記憶が強化されるのは,多様性を,つまりは違いを前提として成り立つ世の中を思い描いていたからなのかもしれない。

そう鹿爪らしく語ろうとする一方で,でも『沈黙』にキチジローが登場するたびに,NHKのコント番組「Life!」で星野源演じるところの“うそ太郎”が二重ってしかたないのが一番なんだけれど。

沈黙

時々,眼をあけると叩き破られた戸の間から星のない真暗な夜空がみえました。
遠藤周作『沈黙』

今月の読書会の課題本『沈黙』をつらつらと読み始めた。矢作俊彦がどこかで書いていた(話していたのかもしれない),欧米人にとって神は父親なのだけれど,日本人にとって神は母親だというくだりを,ふと思い出す。大川悠との対談(FM横浜の「アゲイン」)だったかもしれない。

まだ全体の1/3あたりにもかかわらず,(一般的な)母親に期待するかのような心性で神に向き合っているかのような,今のところの印象。

SNSで流れていくつぶやきを追っていて,これはコミュニケーションではないのだな,とようやくそのことを理解した。正しい/誤りの価値判断で,誤りをいくら叩いたからといって,そこから何か新たな価値観が生まれる可能性はほとんどない。仮に誤った(?)発言をつぶやいた者がいたとしても,そのこと,その人をどのように容認するのか,その間隙をつくることに期待してもしかたないのだろう。そうした発言者がSNSから離れれば,それはそれは心地よいタイムラインの流れは生まれる。

でも,目的が逆になってしまっているように感じる。おかしなつぶやきを探して潰す。つぶやきやその背景にある事件をメディアに乗せて袋叩きにする。そうせざるを得ない事件があることを否定しないけれど,その果てに,どんな公明正大な者たちだけの楽園が生まれるのかを思うと,気持ちは沈む。

武谷三男は「特権」と「人権」を対比させることで,袋叩き化になだれ込みかねない社会に楔を打った。つぶやき上の袋叩きは,「特権」に異を唱えるものとは言い難いように感じる。それは,「正義」とか「科学」とか,つまり何らかの正しさを後ろ盾にして行なうものではないと思うのだ。自らの困難が伴っていないので形而上の話に陥る。このことに警鐘を鳴らしたのも武谷三男だったな。

Stand-up

冊子に致命的な誤植が見つかる。当然,刷り直し。あの手の仕事は引き受けたくないものの,実入りがよいので営業がとってきてしまうのだ。いまどき印刷所の内校を期待してもしかたないが。

娘は友だちの家へ泊まりに出かけた。家内と待ち合わせて外で夕食をとることにした。

高田馬場にキノコノクニヤ書店があって,およそ撤退するなど考えもつかなかった10数年前のこと。店の前の坂を下り,神田川を渡る手前を右に入った。その通りのすぐ右手に妙なギャラリーがあって,その先の材木置き場や事務所を過ぎると飲食店が左右に点在していた。静かな通りで,このあたりにしてはロケーションがよい。通りの突き当り少し手前には傾斜に沿ってつくられた公園がある。生地が厚手のピザで人気のトラットリアはシェフ,店員すべて女性だった。当時はそのことをめずらしく感じた。子どもが保育園に通っている当時,その店に入ることが多かった。

少し名の通ったラーメン屋ができ,ここにも塾帰りに娘と入ったことがある。一時,蕎麦かうどんを出す小体な店もあった。中華料理店とはす向かいにはカフェ。カフェと並んでバァはできたのは10年くらい前のことだ。

バァはいかにも入りづらい佇まいだった。1人でこのあたりまでくることはないから,いきおいその店に入る機会もなかった。

バァがいつの間にかイタリアンダイニングに変わっていた。6席しかないという。店の外に据えられたメニューを眺めると,肉の苦手な家内が食べられそうなものがあった。前菜+パスタで2,000円,それにメインを加えても3,000円と記されていたので入ってみた。

確かにカウンターの6席のみ。ミニマリズム風のインテリアで,カウンターの向こうに若い主人一人だ。ワンドリンク必要だけれど,前菜3品とパスタはそれぞれメニューのなかから選べる。その日,客は私たち二人だけだった。あれこれ話しかけるのは決して得意じゃないが,それでも二言三言話していると,この店を開いたのは2年前で,当時は壁際にあつらえたカウンターを立ち飲みスペースとして用い,10人くらいは入れたそうだ。忙しくなるので,壁際のカウンターは止め,そこは客が荷物を置く場所に使えるようにした。

「ときどき,不思議なお客さんがいらして。この前も“立って食べたい”と,小一時間,立ったまま壁際でコースを召し上がっていかれました。席は空いていたんですけどね」

家に帰り,『戒厳令の夜』下巻を読み終えた。マルケスの『戒厳令下チリ潜入記』を読み直したくなる。下巻に入り,ますます伝記小説の匂いが強くなる。1980年代前半に雨後の筍のように乱筆されたノベルズに,かなり影響を与えていたのではないかと今頃になって思う。一番の影響は,主人公たちの傀儡さ加減とでもいえばよいのか,主体性のなさだ。「主人公が頼まれごとをされたら危ない」と切り出した蓮實重彥,いや渡部直己が村上春樹の“seek and find”ものを評した一文を思い出した。

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