SOMATIC PSYCHOLOGY

「悲しいから涙が出る」のではなく,「涙が出るから悲しい」(のかもしれない)というのが,身体心理学(somatic psychology)の考え方だと山口創さんから伺ったのは数年前のことだ。意味で行為を絡めとろうとする所作から離れるのにいいなと思ったことを覚えている。
「こころ」の問題をさておいて,「からだ」と「ことば」で思考する竹内敏晴さんの取り組みとの共通性を感じたのだ。

意味を,刺激と反射に置き換えたところで,その先に何かがあるとは思えない。また,他者を操作する行為に用いられると非道いことになるのは想像に難くない。
それでも,他者に対する基本的な関係づくりのフィロソフィを前提にした,ミノタウロスのようなありかたこそが人であるゆえんではないだろうか。

1990

昭和の終わりから平成にかけての記憶が定かでない。

1982年はKing Crimsonの“BEAT”とXTCの“English Settlement”がリリースされた年,1985年はP-MODELの“カルカドル”というように,手元に資料がなくともロックバンドのディスコグラフィを辿ってその年の記憶を手繰り寄せることは容易い。もしくは1983年の「Studio Voice」,1984年の「NAVI」――読んできた雑誌や本を通して記憶していることも少なくない。

それが1988年から1992年くらいまでのあいだ,前後関係の脈絡が混乱している。ジョン・マクガフが加入し,やたらポップなセッティングでアルバムを出していた時期のPILの“Happy?”“9”は,記憶のなかでは立て続けに1990年前後に出たことになっているのだけど,実際には,前者は1987年,後者は1989年のリリースだという。
「NEWパンチザウルス」は,1989年2月から4か月間の短命だったと記録されているけれど,もう少しべたっとした私の記憶のなかに沈んでいる。

しばらく前までは,CDが登場して後,旧譜と新譜が混同してきたからに違いないと思っていた。しかし,どうもそのせいではなさそうだ。

それは,職場が銀座7丁目から西新宿7丁目に至る時期と二重なり,ほとんどが中野区上高田に住んでいた時期にあたる。会社に行き,中野や高円寺のCD屋,古本屋,古着屋へ寄る。土曜日はスタジオに入り,そのまま夕飯だ。確かに,同じようなことを数年間にわたり続けていた。絵を描き,KORGT3にデータを打ち込み,映画を見る。もちろん本や雑誌を抱えながら。

事件が起こり,政変があった。にもかかわらず,記憶が時系列に積み重ならず,フラットなのはそのせいなのだと思う。

Perspective

「検索」と「全体の状態の把握」,どちらかを選べと問われたなら,迷わずに「全体の状態の把握」をとるに違いない。両者は対立する概念では決してないのだけれど,ベイトソンの「地図」と「土地」のはるか手前で,後者の感覚が行動についてまわる。

Four Enclosed Walls(PiL)というか,とりあえずあたりがつく範囲を認めてから動く癖が身に染み付いている。でもはじめは,いや昔は「検索」するためにそうやって動き回ったはずなのだ。
それが気がついてみると,(とりあえずの)「全体の状態の把握」なしに検索し得るようになっていった。

目次や地図,棚,束,そういったものから得られる質感にいまだ惹きつけられてしまう。

Underline

『自由を考える』を手に入れたのは2回目だ。最初は新刊で買い,出張のあいだ中,空いた時間に読んでいた。羽田に戻り,品川で乗り換えた山手線の棚に荷物と一緒に置き,本だけ忘れてしまった。
その後,東浩紀,大澤真幸それぞれの著作は読んだけれど,『自由を考える』を買い直すことはなかった。
少し前,高田馬場のブックオフで105円で売られていたのを見つけ,数年ぶりに手に入れた。安価なのには理由がある。前のもち主がアンダーラインを引いた本だからだ。

アンダーラインが引かれた古本を,こだわらずに買うようになったのにも理由がある。

「前に読んだ人がどのような箇所に興味があったのか判ると参考なる」

友人からそう聞いたのは7年前のことだ。古本に引かれたアンダーラインをそんなふうに見たことはなかったので,その言葉がやけに印象に残っている。私は本にアンダーラインを引いて読む習慣をもっていなかった。書棚には,アンダーラインが引かれた新刊はもちろん,古本もあまりない。他に選択肢がないとき,アンダーラインが引かれた古本を買うことはあったが,「はじめから数ページしか引かれていないじゃないか」「アンダーライン引きすぎだ」,そんなふうに感じながら読み進め,結果,読み終えることなく畳んだ本が何冊かある。

手元にある『自由を考える』のアンダーライン箇所は,私の関心とは微妙にずれている。そのことが面白い,というか,そんなふうに本を読むことができること自体,面白い。

先の言葉は当時,遠方に住んでいた友人に頼まれて本を手に入れ,もっていったときに言われた。タイトルだけ確認して中の様子をチェックせずに買ってしまったのだ。頼まれたのはエィミ・タンの『ジョイ・ラック・クラブ』だったと思う。
私は,アンダーラインを横目に小説を読むレベルには,まだ至っていない。初手からそんなものがあるならば,の話だが。

Thomas Newman

仕事をしながら,YoutubeでTop Tracks of Thomas Newmanをときどき流す。

酒の席での話から,自分がウィノナ・ライダーのファンだったことを思い出したのは少し前のことだ。彼女の名前さえすっかり忘れていたのはなぜだろう。20年近くまとめられないストーリーの登場人物のひとりは彼女がモデルだった。
「ビートルジュース」か「シザーハンズ」,どちらかを見てファンになり,遡ったりリアルタイムで見たりして「キルトに綴る愛」までは追いかけていたと思う。その後,映画自体見ることが少なくなっていったので,久しぶりに名前を聞いたのは例の万引き報道だ。

トーマス・ニューマン作「キルトの綴る愛」のサントラはリリースされたときに手に入れた。家庭をもち,まだ家でパレ・シャンブルグやスキニー・パピーを聞くことは躊躇っていた当時のこと。大泉学園の畑に佇むアパートで,そのアルバムは休日に家を片づけたり本を読んだりするときのBGMにぴったりだった。オールディーズに思い入れはないものの,オムニバスにオリジナルが紛れ込んだかのような構成が気に入った。後にまんじゅう型のiMacを手に入れた際にも,このサントラだけは早速,取り込んだ。

夢ではなく,なつかしさ。なつかしさは気に障ることがない。フォーマットを変えながら,それ自体が記憶と繋がっていく。
「キルトに綴る愛」の内容はすっかり忘れてしまった。だから,このアルバムを聞くと思い浮かぶのは実は映画ではなく,トルーマン・カポーティの『遠い声 遠い部屋』だ。

引退したとばかり思っていたウィノナ・ライダーは早々に女優復帰していたのだということを今頃になって知った。

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