2/11

勤労感謝の日。午後から家内と外出。東中野経由で吉祥寺まで。暖かいが冷たい風が吹く。東急百貨店の近くで昼食。徹からメッセンジャーで連絡が入る。高円寺にいるらしい。むげん堂で買い物とのことで,吉祥寺と迷って。バサラブックスが開いていたので,予定を確認したところ奥さんと待ち合わせだという。休みの日にむげん堂(私たちのあいだでは,当時,「インド屋」と呼ばれていた)で買い物か。

家内とは17時半に待ち合わせ,で,バサラブックスに行く。雑誌を数冊購入。古書センター,よみた屋と回る。ここでは何も買わず。アトレに戻り,新刊を少し見ていたら17時半になる。家内と落ち合い,喫茶店を探す。結局,喫茶ロゼに入り休憩。薬局で買い物をして,あとは夕飯を調達。東中野経由で中井まで行き,駅前の店で諸々購入。夕飯をとり,テレビを観る。

村上龍の『MISSING』をときどき読み,残りもう少し。

記憶。ぞっとする言葉だ。経験や学習で記憶が定着する機能は人類のサバイバルと進化に役立ったらしい。その通りだと思う。だが,記憶として強く刻まれ,決して消えることがないのは,残像となった,失われたものの記憶だ。正確には「失われたもの」ではない。残像が存在しているので,それは常に「失われている」という現在形になる。今も,今後も,失われたままなのだ。ベッドに入り,目を閉じると,必ず記憶がよみがえる。消すことはできないし,記憶がイメージとなり,言葉がよみがえる。止めることができない。意識とかロジックは衣装のようなものだ。少し針を刺したくらいでは痛みはないし,寒さにも耐えることができる。だか,よみがえる記憶には抵抗できない。呼吸や発汗や血流を止めることができないのと同じだ。

やはりこの小説,平沢進につきつけたくなる。

2/9

花粉のせいか気圧のせいか,あいかわらずよくわからない。朝,頭痛のため,とはいっても起きたらそこそこ治まったが,午前中は在宅勤務にする。徹流にいえば,とりあえず,会社とつながっているパソコンを立ち上げている間は在宅勤務ということにして。いくつか連絡をとり,出社準備。娘は休日というので遅く起き出す。昼過ぎに家を出て会社まで。

20時くらいまで仕事をして帰宅。夕飯をとり,風呂に入り,0時過ぎに就寝。

SNSで赤い公園についての投稿を目にして,2つのサイトを読んだ。1つはインタビュー記事から津野米咲の個人史をまとめたもので,もうひとつは曲というか歌詞の解釈。90年代っぽい語り口でついつい読み進めてしまう。そこに書かれた文脈で,曲のタイトルを読み返し,ようやく通じるところが多々みえてきたものがあった。赤い公園の作品の,やけにシンプルなタイトルだな,というか,曲名と曲自体がうまくつながらないもやもやとする感じが少し緩んだ。それにしても「もんだな」などという曲名でダブルミーニングと背景を探っていくのは,単なるファンにはなかなかしんどい。もちろん,なにが正しいかどうかはさておき。とはいえ,あの解釈は穿ちすぎだな。意味でガチガチに固まった余白のない作品ではないとは思うのだ。

週末

金曜日はマンションの理事会関係で早めに帰宅。夜は家内とサワディーに行く。入ったときは,他に客は一人,店主と料理長は休憩に入っていたものの,19時前になると駆け込み客が次々と入ってくる。満席になった。アルコールは19時までなので,その時間までに入ろうと妙な混み具合。

土曜日は,午後から消防施設点検があるので,それまでに部屋を片づける。点検は14時前に終わったので,家内と買い物に。野方のSAD CAFEで昼食をとり,バスで高円寺まで。セールになっていたトラウザーズを1本購入。古本サンカクヤマで3冊。野方に戻り,久しぶりにハルミチルで夕飯用のお弁当を買う。定期の更新をしようと思ったところクレジットカードが見つからない。とりあえず,家に戻り記憶をたどる。先週の日曜日に打ち合わせを終え,品川のエキュートで休憩したときにトラウザーズに入れたままにしていた。夕飯をとり,テレビを観て眠る。

日曜日は,昼前から外出。床屋に行って,会社で仕事。17時過ぎに出て,池袋のデパートで夕飯用におかずを買う。芳林堂書店で「新潮」と新書一冊購入して帰宅。持ち帰って仕事を少しだけ進めて夕飯。

土曜日に片づけているとき,「新潮」から「ビッグ・スヌーズ」を切り取り,残ったなかから読んでいない小説をピックアップした。村上龍の「ミッシング」一挙掲載号から,その小説だけ切り取り,持ち歩いて読んでいる。何だか平沢進に読ませたいような按配。

翻訳

18時過ぎに退社して,昨日の食事代を払いに池袋まで行く。ついでに1杯飲む。ジュンク堂書店まで行き,資料を探す。その後も三省堂書店を覘くものの19時30分閉店ということで慌ただしく。高田馬場の芳林堂書店もついでに。それでも1冊も買わずに帰る。『カンマの女王』を買おうとは思ったものの。

帰宅すると娘のほうが先に帰っていた。夕飯をとり,macBookAirの設定。昨夜,Big Surにアップデートできたのだった。ほぼ使っていない家内のアカウントを一度削除し,娘のアカウントのデータを掃除したところ,30数ギガの余裕ができた。記憶ではアップデートできなかったときも,このくらいの余裕はあったように思うのだけれど。インストーラーをダウンロードして,そのまま開いたところ,アラートが出ずにすんなりと更新できた。もしかするとBig Surのバージョンが上がったので,何とか更新できたのかもしれないけれど。

で,起動が快適で,いまのところソフト・アプリ(どう使い分けるのだろう?)もほぼ問題ない。ウイルスソフトだけは暫定版をインストールして使っている。

で,翻訳だった。少し前に『813』を読んだときは,とにかく堀口大學先生の訳が悪いのか原文が悪いのか読みづらかった記憶しかない。エピソードは覚えているものの,ストーリーをすっかり忘れているため,今回読み直してみると,なんだか読みやすいし,面白く感じる。

翻訳独特の癖というのは,一度,頭にし染み込ませたうえで,再度読むと,スッと入ってくるのかもしれない。数年に一度,翻訳書の編集をすると,とにかく一度,時間を空けなければ,ふつうに読みやすい文章にはならないことは痛感する。読む方も同じなのだろうか。

陰謀説

偏頭痛のため,午後から出社。気圧のせいか,花粉症のせいか,花粉症対症療法薬のせいかわからない。18時過ぎまで仕事をして早めに帰る。池袋で途中下車。19時前ということで中華一番に入り休憩。『813』を区切りよいところまで読み,勘定を払おうとすると財布がない。出がけに,手袋を探してバッグの中身を一度出したときに入れ忘れたようだ。明日,払いにくることで了解を得る。

ブックオフに寄り,2冊購入して帰宅。Storesに音楽関係の本を数冊登録した。夕飯をとり,風呂に入って,1時過ぎに眠る。

一時,陰謀論者になってしまったという芸能人のSNS投稿が口火となって,心地悪い投稿を目にするここ数日。斎藤環さんの投稿のこのあたり。

で,ここではまったく触れられていないし,その意図もないのだろうけれど,パンク以降のロックを聴いてきた身としては,何だか居心地が悪い。「苦労して表の知識を学ぶより」と言われると見も蓋もないが,この文脈で,「苦労して表の知識を学ぶ」ことに優位性をもたせているように感じられるあたりが特に。

もとの投稿は,このようなもので,

ここに何か問題を共有するとしたら,「人の裏を読め」という対人関係の築き方だと思うし,さらに,それは人は容易く他者を操作し,操作されうるという前提を歪にとらえているゆえのことだろう。

以下,政治と人文科学を同列に扱うことの是非はさておき。

苦労というか,時間やそのための経費をかけずに,アイディアだけで作品をつくることはできる。私自身,その手の作品にそそられることが多い。それ以前に,表の知識(このエントリでは「技術」を含んでいる)を苦労して学ぶのではなく,学んでいるのであれば,人は学んでしまうものだろう。その点を苦労と形容するのはどうなのだろうか,と。

音楽でいうと,ここ数年,かなり目にするようになったテクニカルな面からの楽曲批評はよい/悪いではなく,テクニカルな面で語るならば,たとえばマイナーコードが「悲しい」という感情を引き起こすとされる因果に踏み込まなければ,それこそ知識を羅列したマウントの取り合いにすぎないと思う。斎藤環さんのツイートに戻ると,表の情報でマウントをとる現状があるから,メタレベルの裏情報でマウントをとるのであって,そこに「苦労して」とか「学ぶ」とかは関係ないだろう。

平沢進は9.11のとき,陰謀説を展開し,そのロジックによる作品をつくった。当時の作品は面白かったものの,だからといって,私は平沢のロジックに操作されることはなかった。平沢進の作品が面白く,その一方で情けないのは,他者を操作したいという欲望を隠すことなく,にもかかわらず作品で他者が操作されないところにあると思う。

まあ,平沢進の場合,マウントをとる欲望ではなく,操作することで他者に理解されたいという欲望なのだろうけれど。それは無理な注文だ。そのあたり平沢自身も了解しているのだろう。以前,投稿した「距離感」という言葉にはそうすたニュアンスが意外と見事に示されていると思う。ただ,作品ではなくツイートでそのあたりに触れると,「こ奴,ばかじゃないか」とつい反応してしまうのだけれど。(少しずつ書き足したり修正する予定)

Top