カムイ伝

マンガ版『風の谷のナウシカ』について,アニメ版の下敷きになった第1巻,2巻あたりはさておき,最終の第7巻について庵野秀明が「クイックジャパン」で,「価値の転倒を行なった」と評価したインタビューを読んだことがある。

途中,コマ割りが大きくなって,ページを捲るスピードが速くなりはするものの,長いマンガだし,噴き出しにも文字が多いので,第7巻についてあまり記憶に残っていなかった。

週末を潰して読み終えたときは,ユングとかメアリ・ダグラスの本を思い出した。

再読のきっかけに絡めていうと,身を呈してまでも対話の経路づくりのカギになるものが必要なことを痛感した。竹内まりやの曲ではないのだから,それはきれいごとでは済まない。けれども,その汚辱と禁忌が関係性をつなぎとめる力になり得ることは,たぶん,このマンガに込められた思いの一つであるのだろう。

ミルグラム

大学時代の友人たちと飲んでいると,1年のときに,ゼミの教授主催でエンカウンター・グループがあったことをはじめ,まったく覚えていない話があれこれ登場した。当然,それらに私は参加していない。

セラピーやワークなどの体験を自分がほとんどもっていないことに思い立ち,あれこれ考えていたときに浮かんだのが別冊宝島の 『精神世界マップ』と,ミルグラムの『服従の心理』。

特にミルグラムの服従実験の講義を受けたときの衝撃はボディブローのようにじわじわと効いてきたことを覚えている。たぶんあのとき,人を操作するようなメソッドには近づかないように刷り込まれたに違いない。認知行動療法にいまだ違和感をもっているのもミルグラムとつながってしまうように思えるからなのだろう。

だから,「正しい戦争」などと政治家が言い出すときに,思い出すのはミルグラム実験だ。
ミ ルグラム実験について記憶にとどめておくことで,「先の大戦で日本は正しい戦争を行なったのではないか?」というような奇矯な問いに感化されることが少なくなるかもしれない。正しい戦争などあるのか,仮に正しい戦争があったとして,そのために2,000万人ともいわれる被害者を生むことっておかしくないか? と,それなりの距離感をとることができるのではないかと。

戦争にあるのは善悪ではなく,巧拙でしかない。私にとっては矢作俊彦を経由した認識だけれど,少なくとも第一次大戦前にすでに一般化されているように思う。

好みの問題とは別に,みずからの自由を何らかのかたちで確保しようとするならば,この本に一度(たとえ読まなくても,何が書かれているかについては),接しておいたほうがよいと,改めて感じた。

ところで,もう一冊については,入学してしばらくして,どんな話題からそんな話になったのかもはや覚えていないが,友人と話しているうちに「カルマ」という単語が出てきたことがある。
「カルマ・カルマと叫んでいると,いつの間にか,ダルマになってしまうもののことだよな」と私が言うと,友人の一人が「別冊宝島だろう,それ」と即座に返ってきた。

まったく違う場所で,同じようなものに出会い,似たところが記憶にのこる。大学の友人は,そんな奴ばかりだった,そのことを幸せに感じる。

以下は,『精神世界マップ』で紹介されているものの一部。今回読み返すまで,ロルフィングが触れられていたことに気づかなかった。

est/アリカ・システム/ゲシュタルト・セラピー/エンカウンター・グループ/結ぼれ/バイオフィードバック/マインド・リーチ/偶然の本質/スーパー ネイチュア/野口体操/グルジェフ体操/フェルデンクライス訓練法/ロルフィング/ウスペンウキー/シュタイナー/バックミンスター・フラー/カプラ/グ ロッフ/レナード/ベイトソン/ラム・ダス/ラジネーシ/鈴木大拙/盤珪など。

カムイ伝

「原作は『カムイ伝』みたいになってきたんだぜ」

部活の帰りだったろうか。聡史がそう言ったとき,つまり主人公が登場せずに物語が進んでいく,ゆるいグラフィティを意味することだいうことくらいは判った。『風の谷のナウシカ』の3巻以降を当時,喩えられる漫画は『カムイ伝』くらいしか思いつかなかった。

結局,『風の谷のナウシカ』が完結したのは,それから10年近く経てからのことだったけれども,7巻まで読み終えて,聡史が言おうとしたことが,あながち間違いではなく,だから,そのことが彼の言葉とともにひっかかっていた。

風の谷って,盟約か何かのために,戦になると兵を出さなければならないのだったよな――そんな定かでない記憶が蘇ってきたのは最近のことだ。1巻,2巻は,1ページに盛り込まれた情報量がとにかく多いので,しばしば再読しても,だいたいこのあたりで頓挫した。

先日,エコロジーとか反原発とか抜きにして読み返してみようと,とにかく思い立ち,ページを捲り始めた。(続きます)

ルポ精神病棟

大熊一夫の『ルポ精神病棟』を読んだのは1980年代の初めのことだった。

風邪ひきのなか,手持ち無沙汰にと弟が,どうしたわけか中井英夫の『虚無への供物』を買ってきたのを契機に,真っ黒かった頃の講談社文庫で夢野久作の『ドグラマグラ』(上中下),小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』,日影丈吉の『幻想博物誌』まで行って,中井英夫に戻ったことを覚えている。

後にYBO2がカバー(というのだろうか)した『ドグラマグラ』の“阿呆陀羅経”“狂人の開放治療”が魅惑的に感じられたのは時代のせいもあるのだろうか。反精神医学の本をつらつらと読んでいると大熊一夫の『ルポ精神病棟』に遭遇した。たぶん,同時代で似たような読書体験をもっている人は少なくないと思う。

その後,矢作俊彦の小説に嵌り,古本屋で「ミステリマガジン」のバックナンバーの山から掲載誌を漁っていたときに連載「真夜半へもう一歩」に出会った。
だから,この小説が大熊一夫のルポをネタにした社会派の体裁をとっていることは,まだ19,20歳の私にも理解できた。

単行本としてまとまったのは数年後。宇都宮病院事件が発覚した頃のことで,あとがきの一文が指す意味は,リアルタイムで追いかけていた者には伝わったと思う。

にもかかわらず,この小説が精神科医療と絡めて論じられた文章を読んだ記憶はない。あげくの果てに,福田和也経由で“新人類の”云々と思考停止したかのような文章ばかりが幅を利かせる。

いやはや。

神戸

朝の4時に起きて,神戸へ向かう。社中は岸政彦『断片的なものの社会学』(朝日出版社)を捲る。いつもは新横浜過ぎてしまうと少なくとも名古屋あたりまでは一眠りしてしまうのだけれど,半分くらい読み終えるところまで眠気を感じなかった。その後,少し眠って新神戸へ。

仕事を終え,三宮で帰りに読む本を調達しようと,記憶を頼りに歩き始めた。ところ,目印にしていたチケットショップと向かいにあるはずのパン屋が見つからない。道幅もやけに広い。どうやら三宮と元町を履き違えて記憶していたようだ。センタープラザの古本屋で森雅裕の『あした、カルメン通りで』(講談社文庫)を購入。その後,近くのブックオフで半村良『となりの宇宙人』を見つけ買った後,家への土産を調達しようとそのあたりをぶらつくが,本当に“あたり”がつかない。結局,土産は駅で買うことにした。

ビールを飲みながら「ビー」を読んでいると,これは小林恭二じゃないか,と思う。

品川で蕎麦をたべて,神田経由の中央線で新宿まで出て,家にもどった。

ふつうの日記だ。

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