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近況。

相変わらず読み終えないままに,次々本を購入の日々。本ブログは,いくつかのテーマで書き進めていくつもりが,テーマがこれまた広がってしまい,なかなか着地に至らない。

このところ一番聴いているのは赤い公園の“木”。出だしのドラムソロから,ラスト前のギター,ベースの絡みの裏で鳴るドラムまで,つぼを押されまくる。ロックはテクニックよりもセンスなのだと痛感する。

毎朝の髭剃りの手持無沙汰に,北田暁大の『嗤う日本の「ナショナリズム」』を捲っていたところ,この本がリフレクションをテーマにしていたことに今頃気づく。ただ,東浩紀ともども,想像力の乏しさが決定的だ。これまではネタとかベタとかをひねくり回した本というイメージしかなったものの,リフレクション(反省)をたよりに読み直しはじめたら,“自己批判”のあたりでひっかかる。
折よく仕事で話をうかがった先生から,大学生がエリートだなんておかしい,これから10年もしたら大学進学があたりまえになると動きを見据えた層が1970年代には確実にいて,彼らのとりくみが70年代から80年代をけん引していった,とのこと。

取り散らかったブログはなかなか進まない。

引用

小林信彦の書いたもののなかに矢作俊彦が出てきた記憶はなかったのだけれど,『地獄の観光船』(集英社文庫)に,このようなくだりがあった。

大衆に知られたヒーローを他の作家が登場させるのには,二つのケースが考えられる。
一 パロディの場合。(それでも人名を変える要あり。)
二 自分で魅力的なヒーローを作り出せない場合。
河野氏(典生「アガサ・クリスティ殺人事件」のこと)の場合が,二でなければ幸いである。
これがいいとなれば,矢作俊彦氏はフィリップ・マーローを書けるし,栗本薫氏はネロ・ウルフを使えるのだ。(p.166)

後に“あ・じゃ・ぱん”でとった手法は広義では「一」に入るかもしれないが,それとは似て非なるものだと思う。

1986

実家を片付けていたところ,高校時代の友人からの手紙が出てきた。大学時代,電話のない貸家に住んでいたので,いきおい外部との連絡は手紙・葉書,もしくは電報になる。時は昭和60年代。巷ではもちろん電話は普通に繋がっていたものの,それほど必要性を感じなかったため,結局,引くことはしなかった。

こ奴とは高校3年間,かなり長い時間,あれこれ話した。私より本式にニューアカに嵌ったため,1986年といえども,手紙の調子はこんな感じだ。

ベイトソンに多少傾倒しているようですね,最近(もっともここ数年だけれでども)は,ニューサイエンスとかヒューマンサイエンスとかでベイトソンも取り上げられる機会が多いですね。カプラの「タオ自然学」とかワトソンの「生命潮流」なんかで東洋的ホーリズムが西洋的還元主義に対して高らかにうたいあげられているけれど(フロイトからユングへなんてこともいわれている),面白いと思うけれど,反面,よくわからない部分が多い。個人的にはアーサー・ケストラーの唱えたシステム理論,つまり,部分と全体という考え方が一番納得できるような気がする。機会があったら読んでみるといい。無駄(功利的という意味じゃない)にはならないと思うから(アーサー・ケストラー「ホロン革命」工作社の一部と二部)。

精神分析学の社会組織内での位置づけについてだけれど,フーコーにいわせれば,精神分析学っていうのは,いわゆる「人間の発明」以後の発見なんだ。人間の 発明というのは,19世紀的歴史ということと不可分なんだけど,19世紀において歴史は「経験的」に規定されることになったんだけれど,この経験という分 野はまさしく人間のそれ以外のなにものでもないわけだ。そこで「経験」のもつ独特の存在形態から,「人間」自身が思考の対象となるとともに,同時に「人 間」はそうした思考そのものを可能にする先験的領野を形づくる主体でもあることになる。こうして客体としての人間が史上はじめて発明されたわけ。ここにお いて人間諸科学なるものを登場してくるのだけれど,これは常に,エピステーメを形づくる知の三角錐に包摂されて,人間が科学という名で排除されるような内 的危機をはらんでいて,それは,人間諸科学が「生き・語り・生産する限りの人間」にかかわるものであり,同時に「先験的‐経験的」次元を含んでいるからだ ということらしい(このあたりの議論が最終的に,あの有名な言語の支配と人間の終焉へと結びついていく)

まったく,面倒くさい時代。

不愉快のゆくえ

年明けの不愉快なやりとり以来,連絡をしていなかった奴のことを,起きがけにふと思った。そ奴以外に,そうした物言いをしただろうか,と。

不愉快のゆくえは,結局のところ,私の甘えのような何かにあったのかもしれないと思った途端,少し震え,そして何かが消えた。

1979

このポストで大槻ケンヂについて書くのはどうかと一瞬考えて,その先を整理せずに,新規投稿を捲った。

昌己を経由してだったろうか,1986年に筋肉少女帯の音には接していたはず。実際に目にしたのは年明け,後楽園ホールで子どもたちのcityをみたときのことだ。P-MODELを目当てに昌己と出掛けた。P-MODELはトリ前で,思えば荒木の脱退ガラパゴスの待ち伏せ男の前,最後の演奏だった。といっても,ガラパゴスには出掛けたのだけれど。

まだ,みのすけがドラムで,演奏能力云々よりもリズムアレンジが琴線に触れる。途中に6/8のリフが混ざると途端,格好よく感じてしまうのは,赤い公園に嵌った最近まで変わらない癖。それほど長いステージではなかったものの格好よかった。全体,予定より押していた記憶もある。

チケットぴあのばばあ(別称:天使)が間違って発券してしまったライブの会場は渋谷ライブインで,その日は筋肉少女帯のライブだった。1987年のことだから,あれから四半世紀が経っている。いまだ,10数年前くらいにしか感じない。オープニングはケラ抜きの空手バカボン=空手アホボンで,“バカボンと戦慄”はもちろん演奏した。続いて筋肉少女帯の演奏がはじまったのだけれど,後楽園ホールに輪をかけて格好よかった。長尺の“いくじなし”は,ストーリーがすっと思い浮かぶようにクリアに耳に入ってくる。繰り返すようだけれど,みのすけのズンドコドラムは悪くなかった。(つづきます)

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